三十六
私の長兄はまだ大学とならない前の開成校にいたのだが、肺を患って中途で退学してしまった。私とはだいぶ年歯が違うので、兄弟としての親しみよりも、大人対小供としての関係の方が、深く私の頭に浸み込んでいる。ことに怒られた時はそうした感じが強く私を刺戟したように思う。
兄は色の白い鼻筋の通った美くしい男であった。しかし顔だちから云っても、表情から見ても、どこかに峻しい相を具えていて、むやみに近寄れないと云った風の逼った心持を他に与えた。
兄の在学中には、まだ地方から出て来た貢進生などのいる頃だったので、今の青年には想像のできないような気風が校内のそこここに残っていたらしい。兄は或上級生に艶書をつけられたと云って、私に話した事がある。その上級生というのは、兄などよりもずっと年歯上の男であったらしい。こんな習慣の行なわれない東京で育った彼は、はたしてその文をどう始末したものだろう。兄はそれ以後学校の風呂でその男と顔を見合せるたびに、きまりの悪い思をして困ったと云っていた。
学校を出た頃の彼は、非常に四角四面で、始終堅苦しく構えていたから、父や母も多少彼に気をおく様子が見えた。その上病気のせいでもあろうが、常に陰気臭い顔をして、宅にばかり引込んでいた。
それがいつとなく融けて来て、人柄が自ずと柔らかになったと思うと、彼はよく古渡唐桟の着物に角帯などを締めて、夕方から宅を外にし始めた。時々は紫色で亀甲型を一面に摺った亀清の団扇などが茶の間に放り出されるようになった。それだけならまだ好いが、彼は長火鉢の前へ坐ったまま、しきりに仮色を遣い出した。しかし宅のものは別段それに頓着する様子も見えなかった。私は無論平気であった。仮色と同時に藤八拳も始まった。しかしこの方は相手が要るので、そう毎晩は繰り返されなかったが、何しろ変に無器用な手を上げたり下げたりして、熱心にやっていた。相手はおもに三番目の兄が勤めていたようである。私は真面目な顔をして、ただ傍観しているに過ぎなかった。
この兄はとうとう肺病で死んでしまった。死んだのはたしか明治二十年だと覚えている。すると葬式も済み、待夜も済んで、まず一片付というところへ一人の女が尋ねて来た。三番目の兄が出て応接して見ると、その女は彼にこんな事を訊いた。
「兄さんは死ぬまで、奥さんを御持ちになりゃしますまいね」
兄は病気のため、生涯妻帯しなかった。
「いいえしまいまで独身で暮らしていました」
「それを聞いてやっと安心しました。妾のようなものは、どうせ旦那がなくっちゃ生きて行かれないから、仕方がありませんけれども、……」
兄の遺骨の埋められた寺の名を教わって帰って行ったこの女は、わざわざ甲州から出て来たのであるが、元柳橋の芸者をしている頃、兄と関係があったのだという話を、私はその時始めて聞いた。
私は時々この女に会って兄の事などを物語って見たい気がしないでもない。しかし会ったら定めし御婆さんになって、昔とはまるで違った顔をしていはしまいかと考える。そうしてその心もその顔同様に皺が寄って、からからに乾いていはしまいかとも考える。もしそうだとすると、彼女が今になって兄の弟の私に会うのは、彼女にとってかえって辛い悲しい事かも知れない。