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硝子戸の中(37)

时间: 2021-01-30    进入日语论坛
核心提示:三十七 私は母の記念のためにここで何か書いておきたいと思うが、あいにく私の知っている母は、私の頭に大した材料を遺(のこ)し
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三十七


 私は母の記念のためにここで何か書いておきたいと思うが、あいにく私の知っている母は、私の頭に大した材料を(のこ)して行ってくれなかった。
 母の名は千枝(ちえ)といった。私は今でもこの千枝という言葉を(なつ)かしいものの一つに数えている。だから私にはそれがただ私の母だけの名前で、けっしてほかの女の名前であってはならないような気がする。幸いに私はまだ母以外の千枝という女に出会った事がない。
 母は私の十三四の時に死んだのだけれども、私の今遠くから呼び起す彼女の幻像は、記憶の糸をいくら辿(たど)って行っても、御婆さんに見える。晩年に生れた私には、母の水々しい姿を覚えている特権がついに与えられずにしまったのである。
 私の知っている母は、常に大きな眼鏡(めがね)をかけて裁縫(しごと)をしていた。その眼鏡は鉄縁の古風なもので、(たま)の大きさが直径(さしわたし)二寸以上もあったように思われる。母はそれをかけたまま、すこし(あご)襟元(えりもと)へ引きつけながら、私をじっと見る事がしばしばあったが、老眼の性質を知らないその頃の私には、それがただ彼女の癖とのみ考えられた。私はこの眼鏡と共に、いつでも母の背景になっていた一間(いっけん)(ふすま)(おも)()す。古びた張交(はりまぜ)(うち)に、生死事大(しょうじじだい)無常迅速(むじょうじんそく)云々と書いた石摺(いしずり)なども(あざ)やかに眼に浮んで来る。
 夏になると母は始終(しじゅう)紺無地(こんむじ)()帷子(かたびら)を着て、幅の狭い黒繻子(くろじゅす)の帯を()めていた。不思議な事に、私の記憶に残っている母の姿は、いつでもこの真夏の服装(なり)で頭の中に現われるだけなので、それから紺無地の絽の着物と幅の狭い黒繻子の帯を取り除くと、後に残るものはただ彼女の顔ばかりになる。母がかつて縁鼻(えんばな)へ出て、兄と()を打っていた様子などは、彼ら二人を組み合わせた図柄(ずがら)として、私の胸に収めてある唯一(ゆいいつ)記念(かたみ)なのだが、そこでも彼女はやはり同じ帷子(かたびら)を着て、同じ帯を()めて坐っているのである。
 私はついぞ母の里へ()れて行かれた(おぼえ)がないので、長い間母がどこから嫁に来たのか知らずに暮らしていた。自分から求めて()きたがるような好奇心はさらになかった。それでその点もやはりぼんやり(かす)んで見えるよりほかに仕方がないのだが、母が()()大番町(おおばんまち)で生れたという話だけは(たし)かに聞いていた。(うち)は質屋であったらしい。蔵が幾戸前(いくとまえ)とかあったのだと、かつて人から教えられたようにも思うが、何しろその大番町という所を、この年になるまで今だに通った事のない私のことだから、そんな細かな点はまるで忘れてしまった。たといそれが事実であったにせよ、私の今もっている母の記念のなかに蔵屋敷などはけっして現われて来ないのである。おおかたその頃にはもう(つぶ)れてしまったのだろう。
 母が父の所へ嫁にくるまで御殿奉公をしていたという話も朧気(おぼろげ)に覚えているが、どこの大名の屋敷へ上って、どのくらい長く勤めていたものか、御殿奉公の性質さえよく(わきま)えない今の私には、ただ(あわ)(かおり)を残して消えた(こう)のようなもので、ほとんどとりとめようのない事実である。
 しかしそう云えば、私は錦絵(にしきえ)()いた御殿女中の羽織っているような華美(はで)な総模様の着物を宅の蔵の中で見た事がある。紅絹裏(もみうら)を付けたその着物の表には、桜だか梅だかが一面に染め出されて、ところどころに金糸や銀糸の刺繍(ぬい)(まじ)っていた。これは恐らく当時の裲襠(かいどり)とかいうものなのだろう。しかし母がそれを打ち掛けた姿は、今想像してもまるで眼に浮かばない。私の知っている母は、常に大きな老眼鏡をかけた御婆さんであったから。
 それのみか私はこの美くしい裲襠がその()小掻巻(こがいまき)に仕立直されて、その頃宅にできた病人の上に載せられたのを見たくらいだから。

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