三十七
私は母の記念のためにここで何か書いておきたいと思うが、あいにく私の知っている母は、私の頭に大した材料を遺して行ってくれなかった。
母の名は千枝といった。私は今でもこの千枝という言葉を懐かしいものの一つに数えている。だから私にはそれがただ私の母だけの名前で、けっしてほかの女の名前であってはならないような気がする。幸いに私はまだ母以外の千枝という女に出会った事がない。
母は私の十三四の時に死んだのだけれども、私の今遠くから呼び起す彼女の幻像は、記憶の糸をいくら辿って行っても、御婆さんに見える。晩年に生れた私には、母の水々しい姿を覚えている特権がついに与えられずにしまったのである。
私の知っている母は、常に大きな眼鏡をかけて裁縫をしていた。その眼鏡は鉄縁の古風なもので、球の大きさが直径二寸以上もあったように思われる。母はそれをかけたまま、すこし顋を襟元へ引きつけながら、私をじっと見る事がしばしばあったが、老眼の性質を知らないその頃の私には、それがただ彼女の癖とのみ考えられた。私はこの眼鏡と共に、いつでも母の背景になっていた一間の襖を想い出す。古びた張交の中に、生死事大無常迅速云々と書いた石摺なども鮮やかに眼に浮んで来る。
夏になると母は始終紺無地の絽の帷子を着て、幅の狭い黒繻子の帯を締めていた。不思議な事に、私の記憶に残っている母の姿は、いつでもこの真夏の服装で頭の中に現われるだけなので、それから紺無地の絽の着物と幅の狭い黒繻子の帯を取り除くと、後に残るものはただ彼女の顔ばかりになる。母がかつて縁鼻へ出て、兄と碁を打っていた様子などは、彼ら二人を組み合わせた図柄として、私の胸に収めてある唯一の記念なのだが、そこでも彼女はやはり同じ帷子を着て、同じ帯を締めて坐っているのである。
私はついぞ母の里へ伴れて行かれた覚がないので、長い間母がどこから嫁に来たのか知らずに暮らしていた。自分から求めて訊きたがるような好奇心はさらになかった。それでその点もやはりぼんやり霞んで見えるよりほかに仕方がないのだが、母が四ツ谷大番町で生れたという話だけは確かに聞いていた。宅は質屋であったらしい。蔵が幾戸前とかあったのだと、かつて人から教えられたようにも思うが、何しろその大番町という所を、この年になるまで今だに通った事のない私のことだから、そんな細かな点はまるで忘れてしまった。たといそれが事実であったにせよ、私の今もっている母の記念のなかに蔵屋敷などはけっして現われて来ないのである。おおかたその頃にはもう潰れてしまったのだろう。
母が父の所へ嫁にくるまで御殿奉公をしていたという話も朧気に覚えているが、どこの大名の屋敷へ上って、どのくらい長く勤めていたものか、御殿奉公の性質さえよく弁えない今の私には、ただ淡い薫を残して消えた香のようなもので、ほとんどとりとめようのない事実である。
しかしそう云えば、私は錦絵に描いた御殿女中の羽織っているような華美な総模様の着物を宅の蔵の中で見た事がある。紅絹裏を付けたその着物の表には、桜だか梅だかが一面に染め出されて、ところどころに金糸や銀糸の刺繍も交っていた。これは恐らく当時の裲襠とかいうものなのだろう。しかし母がそれを打ち掛けた姿は、今想像してもまるで眼に浮かばない。私の知っている母は、常に大きな老眼鏡をかけた御婆さんであったから。
それのみか私はこの美くしい裲襠がその後小掻巻に仕立直されて、その頃宅にできた病人の上に載せられたのを見たくらいだから。