三十八
私が大学で教わったある西洋人が日本を去る時、私は何か餞別を贈ろうと思って、宅の蔵から高蒔絵の緋の房の付いた美しい文箱を取り出して来た事も、もう古い昔である。それを父の前へ持って行って貰い受けた時の私は、全く何の気もつかなかったが、今こうして筆を執って見ると、その文箱も小掻巻に仕立直された紅絹裏の裲襠同様に、若い時分の母の面影を濃かに宿しているように思われてならない。母は生涯父から着物を拵えて貰った事がないという話だが、はたして拵えて貰わないでもすむくらいな支度をして来たものだろうか。私の心に映るあの紺無地の絽の帷子も、幅の狭い黒繻子の帯も、やはり嫁に来た時からすでに箪笥の中にあったものなのだろうか。私は再び母に会って、万事をことごとく口ずから訊いて見たい。
悪戯で強情な私は、けっして世間の末ッ子のように母から甘く取扱かわれなかった。それでも宅中で一番私を可愛がってくれたものは母だという強い親しみの心が、母に対する私の記憶の中には、いつでも籠っている。愛憎を別にして考えて見ても、母はたしかに品位のある床しい婦人に違なかった。そうして父よりも賢こそうに誰の目にも見えた。気むずかしい兄も母だけには畏敬の念を抱いていた。
「御母さんは何にも云わないけれども、どこかに怖いところがある」
私は母を評した兄のこの言葉を、暗い遠くの方から明らかに引張出してくる事が今でもできる。しかしそれは水に融けて流れかかった字体を、きっとなってやっと元の形に返したような際どい私の記憶の断片に過ぎない。そのほかの事になると、私の母はすべて私にとって夢である。途切れ途切れに残っている彼女の面影をいくら丹念に拾い集めても、母の全体はとても髣髴する訳に行かない。その途切途切に残っている昔さえ、半ば以上はもう薄れ過ぎて、しっかりとは掴めない。
或時私は二階へ上って、たった一人で、昼寝をした事がある。その頃の私は昼寝をすると、よく変なものに襲われがちであった。私の親指が見る間に大きくなって、いつまで経っても留らなかったり、あるいは仰向に眺めている天井がだんだん上から下りて来て、私の胸を抑えつけたり、または眼を開いて普段と変らない周囲を現に見ているのに、身体だけが睡魔の擒となって、いくらもがいても、手足を動かす事ができなかったり、後で考えてさえ、夢だか正気だか訳の分らない場合が多かった。そうしてその時も私はこの変なものに襲われたのである。
私はいつどこで犯した罪か知らないが、何しろ自分の所有でない金銭を多額に消費してしまった。それを何の目的で何に遣ったのか、その辺も明瞭でないけれども、小供の私にはとても償う訳に行かないので、気の狭い私は寝ながら大変苦しみ出した。そうしてしまいに大きな声を揚げて下にいる母を呼んだのである。
二階の梯子段は、母の大眼鏡と離す事のできない、生死事大無常迅速云々と書いた石摺の張交にしてある襖の、すぐ後についているので、母は私の声を聞きつけると、すぐ二階へ上って来てくれた。私はそこに立って私を眺めている母に、私の苦しみを話して、どうかして下さいと頼んだ。母はその時微笑しながら、「心配しないでも好いよ。御母さんがいくらでも御金を出して上げるから」と云ってくれた。私は大変嬉しかった。それで安心してまたすやすや寝てしまった。
私はこの出来事が、全部夢なのか、または半分だけ本当なのか、今でも疑っている。しかしどうしても私は実際大きな声を出して母に救を求め、母はまた実際の姿を現わして私に慰藉の言葉を与えてくれたとしか考えられない。そうしてその時の母の服装は、いつも私の眼に映る通り、やはり紺無地の絽の帷子に幅の狭い黒繻子の帯だったのである。