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硝子戸の中(38)

时间: 2021-01-30    进入日语论坛
核心提示:三十八 私が大学で教(おす)わったある西洋人が日本を去る時、私は何か餞別(せんべつ)を贈ろうと思って、宅の蔵から高蒔絵(たか
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三十八


 私が大学で(おす)わったある西洋人が日本を去る時、私は何か餞別(せんべつ)を贈ろうと思って、宅の蔵から高蒔絵(たかまきえ)()(ふさ)の付いた美しい文箱(ふばこ)を取り出して来た事も、もう古い昔である。それを父の前へ持って行って貰い受けた時の私は、全く何の気もつかなかったが、今こうして筆を()って見ると、その文箱も小掻巻に仕立直された紅絹裏の裲襠同様に、若い時分の母の面影(おもかげ)(こまや)かに宿しているように思われてならない。母は生涯(しょうがい)父から着物を(こしら)えて貰った事がないという話だが、はたして拵えて貰わないでもすむくらいな支度(したく)をして来たものだろうか。私の心に映るあの紺無地(こんむじ)()帷子(かたびら)も、幅の狭い黒繻子(くろじゅす)の帯も、やはり嫁に来た時からすでに箪笥(たんす)の中にあったものなのだろうか。私は再び母に会って、万事をことごとく口ずから()いて見たい。
 悪戯(いたずら)で強情な私は、けっして世間の(すえ)()のように母から甘く取扱かわれなかった。それでも宅中(うちじゅう)で一番私を可愛(かわい)がってくれたものは母だという強い親しみの心が、母に対する私の記憶の(うち)には、いつでも(こも)っている。愛憎を別にして考えて見ても、母はたしかに品位のある(ゆか)しい婦人に違なかった。そうして父よりも(かし)こそうに誰の目にも見えた。気むずかしい兄も母だけには畏敬(いけい)の念を(いだ)いていた。
御母(おっか)さんは何にも云わないけれども、どこかに(こわ)いところがある」
 私は母を評した兄のこの言葉を、暗い遠くの方から明らかに引張出(ひっぱりだ)してくる事が今でもできる。しかしそれは水に()けて流れかかった字体を、きっとなってやっと元の形に返したような(きわ)どい私の記憶の断片に過ぎない。そのほかの事になると、私の母はすべて私にとって夢である。途切(とぎ)れ途切れに残っている彼女の面影(おもかげ)をいくら丹念に拾い集めても、母の全体はとても髣髴(ほうふつ)する訳に行かない。その途切(とぎれ)途切に残っている昔さえ、(なか)ば以上はもう薄れ過ぎて、しっかりとは(つか)めない。
 或時私は二階へ(あが)って、たった一人で、昼寝をした事がある。その頃の私は昼寝をすると、よく変なものに襲われがちであった。私の親指が見る間に大きくなって、いつまで()っても留らなかったり、あるいは仰向(あおむき)に眺めている天井(てんじょう)がだんだん上から下りて来て、私の胸を(おさ)えつけたり、または眼を()いて普段と変らない周囲を現に見ているのに、身体(からだ)だけが睡魔の(とりこ)となって、いくらもがいても、手足を動かす事ができなかったり、後で考えてさえ、夢だか正気だか訳の分らない場合が多かった。そうしてその時も私はこの変なものに襲われたのである。
 私はいつどこで犯した罪か知らないが、何しろ自分の所有でない金銭を多額に消費してしまった。それを何の目的で何に(つか)ったのか、その辺も明瞭(めいりょう)でないけれども、小供の私にはとても(つぐな)う訳に行かないので、気の狭い私は寝ながら大変苦しみ出した。そうしてしまいに大きな声を()げて下にいる母を呼んだのである。
 二階の梯子段(はしごだん)は、母の大眼鏡と離す事のできない、生死事大(しょうじじだい)無常迅速(むじょうじんそく)云々と書いた石摺(いしずり)張交(はりまぜ)にしてある(ふすま)の、すぐ(うしろ)についているので、母は私の声を聞きつけると、すぐ二階へ上って来てくれた。私はそこに立って私を眺めている母に、私の苦しみを話して、どうかして下さいと頼んだ。母はその時微笑しながら、「心配しないでも好いよ。御母(おっか)さんがいくらでも御金を出して上げるから」と云ってくれた。私は大変(うれ)しかった。それで安心してまたすやすや寝てしまった。
 私はこの出来事が、全部夢なのか、または半分だけ本当なのか、今でも疑っている。しかしどうしても私は実際大きな声を出して母に救を求め、母はまた実際の姿を現わして私に慰藉(いしゃ)の言葉を与えてくれたとしか考えられない。そうしてその時の母の服装(なり)は、いつも私の眼に映る通り、やはり紺無地(こんむじ)()帷子(かたびら)に幅の狭い黒繻子(くろじゅす)の帯だったのである。

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