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草枕 一 (2)

时间: 2021-01-30    进入日语论坛
核心提示: たちまち足の下で雲雀(ひばり)の声がし出した。谷を見下(みおろ)したが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。ただ声だけが明らか
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 たちまち足の下で雲雀(ひばり)の声がし出した。谷を見下(みおろ)したが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。ただ声だけが明らかに聞える。せっせと(せわ)しく、絶間(たえま)なく鳴いている。方幾里(ほういくり)の空気が一面に(のみ)に刺されていたたまれないような気がする。あの鳥の鳴く()には瞬時の余裕もない。のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、また鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。その上どこまでも登って行く、いつまでも登って行く。雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた揚句(あげく)は、流れて雲に()って、(ただよ)うているうちに形は消えてなくなって、ただ声だけが空の(うち)に残るのかも知れない。
 巌角(いわかど)を鋭どく廻って、按摩(あんま)なら真逆様(まっさかさま)に落つるところを、(きわ)どく右へ切れて、横に見下(みおろ)すと、()の花が一面に見える。雲雀はあすこへ落ちるのかと思った。いいや、あの黄金(こがね)の原から飛び上がってくるのかと思った。次には落ちる雲雀と、(あが)雲雀(ひばり)が十文字にすれ違うのかと思った。最後に、落ちる時も、上る時も、また十文字に()れ違うときにも元気よく鳴きつづけるだろうと思った。
 春は眠くなる。猫は鼠を()る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の(たましい)居所(いどころ)さえ忘れて正体なくなる。ただ菜の花を遠く望んだときに眼が()める。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然(はんぜん)する。雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。
 たちまちシェレーの雲雀の詩を思い出して、口のうちで覚えたところだけ暗誦(あんしょう)して見たが、覚えているところは二三句しかなかった。その二三句のなかにこんなのがある。

  We look before and after
    And pine for what is not:
  Our sincerest laughter
    With some pain is fraught;
Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.

「前をみては、(しり)えを見ては、物欲(ものほ)しと、あこがるるかなわれ。腹からの、笑といえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、(きわ)みの歌に、悲しさの、極みの(おもい)(こも)るとぞ知れ」
 なるほどいくら詩人が幸福でも、あの雲雀のように思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌う(わけ)には行くまい。西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく万斛(ばんこく)(うれい)などと云う字がある。詩人だから万斛で素人(しろうと)なら一(ごう)で済むかも知れぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨(ぼんこつ)の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜びもあろうが、無量の(かなしみ)も多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。
 しばらくは路が(たいら)で、右は雑木山(ぞうきやま)、左は菜の花の見つづけである。足の下に時々蒲公英(たんぽぽ)を踏みつける。(のこぎり)のような葉が遠慮なく四方へのして真中に黄色な(たま)を擁護している。菜の花に気をとられて、踏みつけたあとで、気の毒な事をしたと、振り向いて見ると、黄色な珠は依然として鋸のなかに鎮座(ちんざ)している。呑気(のんき)なものだ。また考えをつづける。
 詩人に(うれい)はつきものかも知れないが、あの雲雀(ひばり)を聞く心持になれば微塵(みじん)()もない。菜の花を見ても、ただうれしくて胸が(おど)るばかりだ。蒲公英もその通り、桜も――桜はいつか見えなくなった。こう山の中へ来て自然の景物(けいぶつ)に接すれば、見るものも聞くものも面白い。面白いだけで別段の苦しみも起らぬ。起るとすれば足が草臥(くたび)れて、(うま)いものが食べられぬくらいの事だろう。

 

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