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草枕 一 (3)

时间: 2021-01-30    进入日语论坛
核心提示: しかし苦しみのないのはなぜだろう。ただこの景色を一幅(ぷく)の画(え)として観(み)、一巻(かん)の詩として読むからである。画
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 しかし苦しみのないのはなぜだろう。ただこの景色を一(ぷく)()として()、一(かん)の詩として読むからである。()であり詩である以上は地面(じめん)を貰って、開拓する気にもならねば、鉄道をかけて一儲(ひともう)けする了見(りょうけん)も起らぬ。ただこの景色が――腹の()しにもならぬ、月給の補いにもならぬこの景色が景色としてのみ、余が心を楽ませつつあるから苦労も心配も(ともな)わぬのだろう。自然の力はここにおいて(たっ)とい。吾人の性情を瞬刻に陶冶(とうや)して醇乎(じゅんこ)として醇なる詩境に入らしむるのは自然である。
 恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。しかし自身がその(きょく)に当れば利害の旋風(つむじ)()き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は(くら)んでしまう。したがってどこに詩があるか自身には()しかねる。
 これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は()て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は(たな)へ上げている。見たり読んだりする間だけは詩人である。
 それすら、普通の芝居や小説では人情を(まぬ)かれぬ。苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。見るものもいつかその中に同化して苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。取柄(とりえ)は利慾が(まじ)らぬと云う点に(そん)するかも知れぬが、交らぬだけにその他の情緒(じょうしょ)は常よりは余計に活動するだろう。それが(いや)だ。
 苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通(しとお)して、飽々(あきあき)した。()き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞(こぶ)するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界(じんかい)を離れた心持ちになれる詩である。いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌(しいか)の純粋なるものもこの(きょう)解脱(げだつ)する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世(うきよ)勧工場(かんこうば)にあるものだけで用を(べん)じている。いくら詩的になっても地面の上を()けてあるいて、(ぜに)の勘定を忘れるひまがない。シェレーが雲雀(ひばり)を聞いて嘆息したのも無理はない。
 うれしい事に東洋の詩歌(しいか)はそこを解脱(げだつ)したのがある。採菊(きくをとる)東籬下(とうりのもと)悠然(ゆうぜんとして)見南山(なんざんをみる)。ただそれぎりの(うち)に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が(のぞ)いてる訳でもなければ、南山(なんざん)に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的(しゅっせけんてき)に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。(ひとり)坐幽篁裏(ゆうこうのうちにざし)弾琴(きんをだんじて)復長嘯(またちょうしょうす)深林(しんりん)人不知(ひとしらず)明月来(めいげつきたりて)相照(あいてらす)。ただ二十字のうちに(ゆう)別乾坤(べつけんこん)建立(こんりゅう)している。この乾坤の功徳(くどく)は「不如帰(ほととぎす)」や「金色夜叉(こんじきやしゃ)」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた(のち)に、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である。
 二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれているから、わざわざ呑気(のんき)扁舟(へんしゅう)(うか)べてこの桃源(とうげん)(さかのぼ)るものはないようだ。余は(もと)より詩人を職業にしておらんから、王維(おうい)淵明(えんめい)境界(きょうがい)を今の世に布教(ふきょう)して広げようと云う心掛も何もない。ただ自分にはこう云う感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。こうやって、ただ一人(ひとり)絵の具箱と三脚几(さんきゃくき)(かつ)いで春の山路(やまじ)をのそのそあるくのも全くこれがためである。淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの()でも非人情(ひにんじょう)の天地に逍遥(しょうよう)したいからの(ねがい)。一つの酔興(すいきょう)だ。
 もちろん人間の一分子(いちぶんし)だから、いくら好きでも、非人情はそう長く続く(わけ)には行かぬ。淵明だって(ねん)年中(ねんじゅう)南山(なんざん)を見詰めていたのでもあるまいし、王維も好んで竹藪(たけやぶ)の中に蚊帳(かや)を釣らずに寝た男でもなかろう。やはり余った菊は花屋へ売りこかして、()えた(たけのこ)八百屋(やおや)へ払い下げたものと思う。こう云う余もその通り。いくら雲雀と菜の花が気に入ったって、山のなかへ野宿するほど非人情が(つの)ってはおらん。こんな所でも人間に()う。じんじん端折(ばしょ)りの頬冠(ほおかむ)りや、赤い腰巻(こしまき)(あね)さんや、時には人間より顔の長い馬にまで逢う。百万本の(ひのき)に取り囲まれて、海面を抜く何百尺かの空気を()んだり吐いたりしても、人の(にお)いはなかなか取れない。それどころか、山を越えて落ちつく先の、今宵(こよい)の宿は那古井(なこい)温泉場(おんせんば)だ。
 ただ、物は見様(みよう)でどうでもなる。レオナルド・ダ・ヴィンチが弟子に告げた(ことば)に、あの(かね)(おと)を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれるとある。一人の男、一人の女も見様次第(みようしだい)でいかようとも見立てがつく。どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、そのつもりで人間を見たら、浮世小路(うきよこうじ)の何軒目に狭苦しく暮した時とは違うだろう。よし全く人情を離れる事が出来んでも、せめて御能拝見(おのうはいけん)の時くらいは淡い心持ちにはなれそうなものだ。能にも人情はある。七騎落(しちきおち)でも、墨田川(すみだがわ)でも泣かぬとは保証が出来ん。しかしあれは(じょう)分芸(ぶげい)七分で見せるわざだ。我らが能から()けるありがた味は下界の人情をよくそのままに写す手際(てぎわ)から出てくるのではない。そのままの上へ芸術という着物を何枚も着せて、世の中にあるまじき悠長(ゆうちょう)振舞(ふるまい)をするからである。

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