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草枕 三 (3)

时间: 2021-02-07    进入日语论坛
核心提示: この故ゆえに天然てんねんにあれ、人事にあれ、衆俗しゅうぞくの辟易へきえきして近づきがたしとなすところにおいて、芸術家は
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  このゆえ天然てんねんにあれ、人事にあれ、衆俗しゅうぞく辟易へきえきして近づきがたしとなすところにおいて、芸術家は無数の琳琅りんろうを見、無上むじょうほうろを知る。俗にこれをなづけて美化びかと云う。その実は美化でも何でもない。燦爛さんらんたる彩光さいこうは、炳乎へいことして昔から現象世界に実在している。ただ一翳いちえい眼にって空花乱墜くうげらんついするが故に、俗累ぞくるい覊絏牢きせつろうとしてちがたきが故に、栄辱得喪えいじょくとくそうのわれにせまる事、念々切せつなるが故に、ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず、応挙おうきょが幽霊をえがくまでは幽霊の美を知らずに打ち過ぎるのである。

 余が今見た影法師も、ただそれきりの現象とすれば、()れが見ても、(だれ)に聞かしても(ゆたか)に詩趣を帯びている。――孤村(こそん)の温泉、――春宵(しゅんしょう)花影(かえい)、――月前(げつぜん)低誦(ていしょう)、――朧夜(おぼろよ)の姿――どれもこれも芸術家の好題目(こうだいもく)である。この好題目が眼前(がんぜん)にありながら、余は()らざる詮義立(せんぎだ)てをして、余計な()ぐりを投げ込んでいる。せっかくの雅境に理窟(りくつ)の筋が立って、願ってもない風流を、気味の()るさが踏みつけにしてしまった。こんな事なら、非人情も標榜(ひょうぼう)する価値がない。もう少し修行をしなければ詩人とも画家とも人に向って吹聴(ふいちょう)する資格はつかぬ。昔し以太利亜(イタリア)の画家サルヴァトル・ロザは泥棒が研究して見たい一心から、おのれの危険を(かけ)にして、山賊の(むれ)這入(はい)り込んだと聞いた事がある。飄然(ひょうぜん)と画帖を(ふところ)にして家を()でたからには、余にもそのくらいの覚悟がなくては恥ずかしい事だ。
 こんな時にどうすれば詩的な立脚地(りっきゃくち)に帰れるかと云えば、おのれの感じ、そのものを、おのが前に()えつけて、その感じから一歩退(しりぞ)いて有体(ありてい)に落ちついて、他人らしくこれを検査する余地さえ作ればいいのである。詩人とは自分の屍骸(しがい)を、自分で解剖して、その病状を天下に発表する義務を有している。その方便は色々あるが一番手近(てぢか)なのは(なん)でも()でも手当り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。十七字は詩形としてもっとも軽便であるから、顔を洗う時にも、(かわや)(のぼ)った時にも、電車に乗った時にも、容易に出来る。十七字が容易に出来ると云う意味は安直(あんちょく)に詩人になれると云う意味であって、詩人になると云うのは一種の(さと)りであるから軽便だと云って侮蔑(ぶべつ)する必要はない。軽便であればあるほど功徳(くどく)になるからかえって尊重すべきものと思う。まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人(ひとり)が同時に働けるものではない。ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや(いな)やうれしくなる。涙を十七字に(まと)めた時には、苦しみの涙は自分から遊離(ゆうり)して、おれは泣く事の出来る男だと云う(うれ)しさだけの自分になる。
 これが平生(へいぜい)から余の主張である。今夜も一つこの主張を実行して見ようと、夜具の中で例の事件を色々と句に仕立てる。出来たら書きつけないと散漫(さんまん)になっていかぬと、念入りの修業だから、例の写生帖をあけて枕元へ置く。
海棠(かいだう)の露をふるふや物狂(ものぐる)ひ」と真先(まっさき)に書き付けて読んで見ると、別に面白くもないが、さりとて気味のわるい事もない。次に「花の影、女の影の(おぼろ)かな」とやったが、これは季が(かさ)なっている。しかし何でも構わない、気が落ちついて呑気(のんき)になればいい。それから「正一位(しやういちゐ)、女に()けて朧月(おぼろづき)」と作ったが、狂句めいて、自分ながらおかしくなった。
 この調子なら大丈夫と乗気(のりき)になって出るだけの句をみなかき付ける。

春の星を落して夜半(よは)のかざしかな
春の夜の雲に濡らすや洗ひ髪
春や今宵(こよひ)歌つかまつる御姿
海棠(かいだう)の精が出てくる月夜かな
うた折々月下の春ををちこちす
思ひ切つて更け行く春の独りかな

などと、試みているうち、いつしか、うとうと眠くなる。
 恍惚(こうこつ)と云うのが、こんな場合に用いるべき形容詞かと思う。熟睡のうちには何人(なんびと)も我を認め得ぬ。明覚(めいかく)の際には(たれ)あって外界(がいかい)を忘るるものはなかろう。ただ両域の間に()のごとき幻境が(よこた)わる。()めたりと云うには余り(おぼろ)にて、眠ると評せんには少しく生気(せいき)(あま)す。起臥(きが)の二界を同瓶裏(どうへいり)に盛りて、詩歌(しいか)彩管(さいかん)をもって、ひたすらに()()ぜたるがごとき状態を云うのである。自然の色を夢の手前(てまえ)までぼかして、ありのままの宇宙を一段、(かすみ)の国へ押し流す。睡魔の妖腕(ようわん)をかりて、ありとある実相の角度を(なめら)かにすると共に、かく(やわ)らげられたる乾坤(けんこん)に、われからと(かす)かに(にぶ)き脈を通わせる。地を()う煙の飛ばんとして飛び得ざるごとく、わが(たましい)の、わが(から)を離れんとして離るるに忍びざる(てい)である。抜け()でんとして逡巡(ためら)い、逡巡いては抜け出でんとし、()ては魂と云う個体を、もぎどうに(たも)ちかねて、(いんうん)たる瞑氛(めいふん)が散るともなしに四肢五体に纏綿(てんめん)して、依々(いい)たり恋々(れんれん)たる心持ちである。
 余が寤寐(ごび)(さかい)にかく逍遥(しょうよう)していると、入口の唐紙(からかみ)がすうと()いた。あいた所へまぼろしのごとく女の影がふうと現われた。余は驚きもせぬ。恐れもせぬ。ただ心地(ここち)よく(なが)めている。眺めると云うてはちと言葉が強過ぎる。余が()じている(まぶた)(うち)幻影(まぼろし)の女が(ことわ)りもなく(すべ)り込んで来たのである。まぼろしはそろりそろりと部屋のなかに這入(はい)る。仙女(せんにょ)の波をわたるがごとく、畳の上には人らしい音も立たぬ。閉ずる(まなこ)のなかから見る世の中だから(しか)とは解らぬが、色の白い、髪の濃い、襟足(えりあし)の長い女である。近頃はやる、ぼかした写真を灯影(ほかげ)にすかすような気がする。

 

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