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草枕 四(3)

时间: 2021-02-07    进入日语论坛
核心提示:「この部屋は普段誰か這入(はい)っている所かね」「普段は奥様がおります」「それじゃ、昨夕(ゆうべ)、わたしが来る時までここに
(单词翻译:双击或拖选)

「この部屋は普段誰か這入(はい)っている所かね」
「普段は奥様がおります」
「それじゃ、昨夕(ゆうべ)、わたしが来る時までここにいたのだね」
「へえ」
「それは御気の毒な事をした。それで大徹さんの所へ何をしに行くのだい」
「知りません」
「それから」
「何でござんす」
「それから、まだほかに何かするのだろう」
「それから、いろいろ……」
「いろいろって、どんな事を」
「知りません」
 会話はこれで切れる。飯はようやく(おわ)る。膳を引くとき、小女郎が入口の(ふすま)(あけ)たら、中庭の栽込(うえこ)みを(へだ)てて、向う二階の欄干(らんかん)銀杏返(いちょうがえ)しが頬杖(ほおづえ)を突いて、開化した楊柳観音(ようりゅうかんのん)のように下を見詰めていた。今朝に引き()えて、はなはだ静かな姿である。俯向(うつむ)いて、瞳の働きが、こちらへ通わないから、相好(そうごう)にかほどな変化を来たしたものであろうか。昔の人は人に存するもの眸子(ぼうし)より良きはなしと云ったそうだが、なるほど人(いずく)んぞさんや、人間のうちで眼ほど活きている道具はない。寂然(じゃくねん)()亜字欄(あじらん)の下から、蝶々(ちょうちょう)が二羽寄りつ離れつ舞い上がる。途端(とたん)にわが部屋の(ふすま)はあいたのである。襖の音に、女は卒然と蝶から眼を余の(かた)に転じた。視線は毒矢のごとく(くう)(つらぬ)いて、会釈(えしゃく)もなく余が眉間(みけん)に落ちる。はっと思う間に、小女郎が、またはたと襖を立て切った。あとは至極(しごく)呑気(のんき)な春となる。
 余はまたごろりと寝ころんだ。たちまち心に浮んだのは、

Sadder than is the moon's lost light,
   Lost ere the kindling of dawn,
   To travellers journeying on,
The shutting of thy fair face from my sight.

と云う句であった。もし余があの銀杏返(いちょうがえ)しに懸想(けそう)して、身を(くだ)いても逢わんと思う矢先に、今のような一瞥(いちべつ)の別れを、魂消(たまぎ)るまでに、嬉しとも、口惜(くちお)しとも感じたら、余は必ずこんな意味をこんな詩に作るだろう。その上に

Might I look on thee in death,
With bliss I would yield my breath.

と云う二句さえ、付け加えたかも知れぬ。幸い、普通ありふれた、恋とか愛とか云う境界(きょうがい)はすでに通り越して、そんな苦しみは感じたくても感じられない。しかし今の刹那(せつな)に起った出来事の詩趣はゆたかにこの五六行にあらわれている。余と銀杏返しの間柄(あいだがら)にこんな(せつ)ない(おもい)はないとしても、二人の今の関係を、この詩の(うち)適用(あてはめ)て見るのは面白い。あるいはこの詩の意味をわれらの身の上に引きつけて解釈しても愉快だ。二人の間には、ある因果(いんが)の細い糸で、この詩にあらわれた境遇の一部分が、事実となって、(くく)りつけられている。因果もこのくらい糸が細いと()にはならぬ。その上、ただの糸ではない。空を横切る(にじ)の糸、野辺(のべ)棚引(たなび)(かすみ)の糸、(つゆ)にかがやく蜘蛛(くも)の糸。切ろうとすれば、すぐ切れて、見ているうちは(すぐ)れてうつくしい。万一この糸が見る間に太くなって井戸縄(いどなわ)のようにかたくなったら? そんな危険はない。余は画工である。先はただの女とは違う。
 突然襖があいた。寝返(ねがえ)りを打って入口を見ると、因果の相手のその銀杏返しが敷居の上に立って青磁(せいじ)(はち)を盆に乗せたまま(たたず)んでいる。
「また寝ていらっしゃるか、昨夕(ゆうべ)は御迷惑で御座んしたろう。何返(なんべん)も御邪魔をして、ほほほほ」と笑う。(おく)した景色(けしき)も、隠す景色も――恥ずる景色は無論ない。ただこちらが(せん)を越されたのみである。
「今朝はありがとう」とまた礼を云った。考えると、丹前(たんぜん)の礼をこれで三(べん)云った。しかも、三返ながら、ただ難有うと云う三字である。
 女は余が起き返ろうとする枕元へ、早くも坐って
「まあ寝ていらっしゃい。寝ていても話は出来ましょう」と、さも気作(きさく)に云う。余は全くだと考えたから、ひとまず腹這(はらばい)になって、両手で(あご)(ささ)え、しばし畳の上へ肘壺(ひじつぼ)の柱を立てる。
「御退屈だろうと思って、御茶を入れに来ました」
「ありがとう」またありがとうが出た。菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹(ようかん)が並んでいる。余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹が(すき)だ。別段食いたくはないが、あの肌合(はだあい)(なめ)らかに、緻密(ちみつ)に、しかも半透明(はんとうめい)に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた煉上(ねりあ)げ方は、(ぎょく)蝋石(ろうせき)の雑種のようで、はなはだ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れたようにつやつやして、思わず手を出して()でて見たくなる。西洋の菓子で、これほど快感を与えるものは一つもない。クリームの色はちょっと(やわら)かだが、少し重苦しい。ジェリは、一目(いちもく)宝石のように見えるが、ぶるぶる(ふる)えて、羊羹ほどの重味がない。白砂糖と牛乳で五重の塔を作るに至っては、言語道断(ごんごどうだん)の沙汰である。
「うん、なかなか美事(みごと)だ」
「今しがた、源兵衛が買って帰りました。これならあなたに召し上がられるでしょう」
 源兵衛は昨夕城下(じょうか)(とま)ったと見える。余は別段の返事もせず羊羹を見ていた。どこで誰れが買って来ても構う事はない。ただ美くしければ、美くしいと思うだけで充分満足である。
「この青磁の形は大変いい。色も美事だ。ほとんど羊羹に対して遜色(そんしょく)がない」
 女はふふんと笑った。口元(くちもと)(あな)どりの波が(かす)かに()れた。余の言葉を洒落(しゃれ)と解したのだろう。なるほど洒落とすれば、軽蔑(けいべつ)される(あたい)はたしかにある。智慧(ちえ)の足りない男が無理に洒落れた時には、よくこんな事を云うものだ。
「これは支那ですか」
「何ですか」と相手はまるで青磁を眼中に置いていない。
「どうも支那らしい」と皿を上げて底を(なが)めて見た。
「そんなものが、御好きなら、見せましょうか」
「ええ、見せて下さい」
「父が骨董(こっとう)が大好きですから、だいぶいろいろなものがあります。父にそう云って、いつか御茶でも上げましょう」

 

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