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草枕 六(2)

时间: 2021-02-07    进入日语论坛
核心提示: 強しいて説明せよと云わるるならば、余が心はただ春と共に動いていると云いたい。あらゆる春の色、春の風、春の物、春の声を打
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  いて説明せよと云わるるならば、余が心はただ春と共に動いていると云いたい。あらゆる春の色、春の風、春の物、春の声を打って、固めて、仙丹せんたんに練り上げて、それを蓬莱ほうらい霊液れいえきいて、桃源とうげんの日で蒸発せしめた精気が、知らぬ毛孔けあなからみ込んで、心が知覚せぬうちに飽和ほうわされてしまったと云いたい。普通の同化には刺激がある。刺激があればこそ、愉快であろう。余の同化には、何と同化したか不分明ふぶんみょうであるから、ごうも刺激がない。刺激がないから、窈然ようぜんとして名状しがたいたのしみがある。風にまれてうわそらなる波を起す、軽薄で騒々しいおもむきとは違う。目に見えぬ幾尋いくひろの底を、大陸から大陸まで動いているこうようたる蒼海そうかいの有様と形容する事が出来る。ただそれほどに活力がないばかりだ。しかしそこにかえって幸福がある。偉大なる活力の発現は、この活力がいつか尽き果てるだろうとの懸念けねんこもる。常の姿にはそう云う心配は伴わぬ。常よりは淡きわが心の、今の状態には、わがはげしき力の銷磨しょうましはせぬかとのうれいを離れたるのみならず、常の心の可もなく不可もなき凡境をも脱却している。淡しとは単にとらえ難しと云う意味で、弱きに過ぎるおそれを含んではおらぬ。冲融ちゅうゆうとか澹蕩たんとうとか云う詩人の語はもっともこのきょうを切実に言いおおせたものだろう。

 この境界(きょうがい)()にして見たらどうだろうと考えた。しかし普通の画にはならないにきまっている。われらが俗に画と称するものは、ただ眼前(がんぜん)の人事風光をありのままなる姿として、もしくはこれをわが審美眼に漉過(ろくか)して、絵絹(えぎぬ)の上に移したものに過ぎぬ。花が花と見え、水が水と映り、人物が人物として活動すれば、画の能事(のうじ)は終ったものと考えられている。もしこの上に一頭地(いっとうち)を抜けば、わが感じたる物象を、わが感じたるままの(おもむき)を添えて、画布の上に淋漓(りんり)として生動(せいどう)させる。ある特別の感興を、(おの)が捕えたる森羅(しんら)(うち)に寓するのがこの種の技術家の主意であるから、彼らの見たる物象観が明瞭(めいりょう)に筆端に(ほとば)しっておらねば、画を製作したとは云わぬ。(おの)れはしかじかの事を、しかじかに()、しかじかに感じたり、その観方(みかた)も感じ方も、前人(ぜんじん)籬下(りか)に立ちて、古来の伝説に支配せられたるにあらず、しかももっとも正しくして、もっとも美くしきものなりとの主張を示す作品にあらざれば、わが作と云うをあえてせぬ。
 この二種の製作家に主客(しゅかく)深浅の区別はあるかも知れぬが、明瞭なる外界の刺激を待って、始めて手を下すのは双方共同一である。されど今、わが描かんとする題目は、さほどに分明(ぶんみょう)なものではない。あらん限りの感覚を鼓舞(こぶ)して、これを心外に物色したところで、方円の形、紅緑(こうろく)の色は無論、濃淡の陰、洪繊(こうせん)(すじ)を見出しかねる。わが感じは外から来たのではない、たとい来たとしても、わが視界に(よこた)わる、一定の景物でないから、これが源因(げんいん)だと指を()げて明らかに人に示す(わけ)に行かぬ。あるものはただ心持ちである。この心持ちを、どうあらわしたら画になるだろう――(いや)この心持ちをいかなる具体を()りて、人の合点(がてん)するように髣髴(ほうふつ)せしめ得るかが問題である。
 普通の画は感じはなくても物さえあれば出来る。第二の画は物と感じと両立すればできる。第三に至っては存するものはただ心持ちだけであるから、画にするには是非共この心持ちに恰好(かっこう)なる対象を(えら)ばなければならん。しかるにこの対象は容易に出て来ない。出て来ても容易に(まとま)らない。纏っても自然界に存するものとは(まる)(おもむき)(こと)にする場合がある。したがって普通の人から見れば画とは受け取れない。(えが)いた当人も自然界の局部が再現したものとは認めておらん、ただ感興の()した刻下の心持ちを幾分でも伝えて、多少の生命をしがたきムードに与うれば大成功と心得ている。古来からこの難事業に全然の(いさおし)を収め得たる画工があるかないか知らぬ。ある点までこの流派(りゅうは)に指を染め得たるものを()ぐれば、文与可(ぶんよか)の竹である。雲谷(うんこく)門下の山水である。下って大雅堂(たいがどう)景色(けいしょく)である。蕪村(ぶそん)の人物である。泰西(たいせい)の画家に至っては、多く眼を具象(ぐしょう)世界に()せて、神往(しんおう)気韻(きいん)に傾倒せぬ者が大多数を占めているから、この種の筆墨に物外(ぶつがい)神韻(しんいん)を伝え得るものははたして幾人あるか知らぬ。
 惜しい事に雪舟(せっしゅう)、蕪村らの(つと)めて描出(びょうしゅつ)した一種の気韻は、あまりに単純でかつあまりに変化に乏しい。筆力の点から云えばとうていこれらの大家に及ぶ訳はないが、今わが()にして見ようと思う心持ちはもう少し複雑である。複雑であるだけにどうも一枚のなかへは感じが収まりかねる。頬杖(ほおづえ)をやめて、両腕を机の上に組んで考えたがやはり出て来ない。色、形、調子が出来て、自分の心が、ああここにいたなと、たちまち自己を認識するようにかかなければならない。生き別れをした吾子(わがこ)を尋ね当てるため、六十余州を回国(かいこく)して、()ても()めても、忘れる()がなかったある日、十字街頭にふと邂逅(かいこう)して、稲妻(いなずま)(さえ)ぎるひまもなきうちに、あっ、ここにいた、と思うようにかかなければならない。それがむずかしい。この調子さえ出れば、人が見て何と云っても構わない。画でないと(ののし)られても(うらみ)はない。いやしくも色の配合がこの心持ちの一部を代表して、線の曲直(きょくちょく)がこの気合の幾分を表現して、全体の配置がこの風韻(ふういん)のどれほどかを伝えるならば、形にあらわれたものは、牛であれ馬であれ、ないしは牛でも馬でも、何でもないものであれ、(いと)わない。厭わないがどうも出来ない。写生帖を机の上へ置いて、両眼が(じょう)のなかへ落ち込むまで、工夫(くふう)したが、とても物にならん。

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