岨道を登り切ると、山の出鼻の平な所へ出た。北側は翠りを畳む春の峰で、今朝椽から仰いだあたりかも知れない。南側には焼野とも云うべき地勢が幅半丁ほど広がって、末は崩れた崖となる。崖の下は今過ぎた蜜柑山で、村を跨いで向を見れば、眼に入るものは言わずも知れた青海である。
路は幾筋もあるが、合うては別れ、別れては合うから、どれが本筋とも認められぬ。どれも路である代りに、どれも路でない。草のなかに、黒赤い地が、見えたり隠れたりして、どの筋につながるか見分のつかぬところに変化があって面白い。
どこへ腰を据えたものかと、草のなかを遠近と徘徊する。椽から見たときは画になると思った景色も、いざとなると存外纏まらない。色もしだいに変ってくる。草原をのそつくうちに、いつしか描く気がなくなった。描かぬとすれば、地位は構わん、どこへでも坐った所がわが住居である。染み込んだ春の日が、深く草の根に籠って、どっかと尻を卸すと、眼に入らぬ陽炎を踏み潰したような心持ちがする。
海は足の下に光る。遮ぎる雲の一片さえ持たぬ春の日影は、普ねく水の上を照らして、いつの間にかほとぼりは波の底まで浸み渡ったと思わるるほど暖かに見える。色は一刷毛の紺青を平らに流したる所々に、しろかねの細鱗を畳んで濃やかに動いている。春の日は限り無き天が下を照らして、天が下は限りなき水を湛えたる間には、白き帆が小指の爪ほどに見えるのみである。しかもその帆は全く動かない。往昔入貢の高麗船が遠くから渡ってくるときには、あんなに見えたであろう。そのほかは大千世界を極めて、照らす日の世、照らさるる海の世のみである。
ごろりと寝る。帽子が額をすべって、やけに阿弥陀となる。所々の草を一二尺抽いて、木瓜の小株が茂っている。余が顔はちょうどその一つの前に落ちた。木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かつて曲った事がない。そんなら真直かと云うと、けっして真直でもない。ただ真直な短かい枝に、真直な短かい枝が、ある角度で衝突して、斜に構えつつ全体が出来上っている。そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔かい葉さえちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守ると云う人がある。この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい。