蛇は吾々の前でとまる。横腹の戸がいくつもあく。人が出たり、這入ったりする。久一さんは乗った。老人も兄さんも、那美さんも、余もそとに立っている。
車輪が一つ廻れば久一さんはすでに吾らが世の人ではない。遠い、遠い世界へ行ってしまう。その世界では煙硝の臭いの中で、人が働いている。そうして赤いものに滑って、むやみに転ぶ。空では大きな音がどどんどどんと云う。これからそう云う所へ行く久一さんは車のなかに立って無言のまま、吾々を眺めている。吾々を山の中から引き出した久一さんと、引き出された吾々の因果はここで切れる。もうすでに切れかかっている。車の戸と窓があいているだけで、御互の顔が見えるだけで、行く人と留まる人の間が六尺ばかり隔っているだけで、因果はもう切れかかっている。
車掌が、ぴしゃりぴしゃりと戸を閉てながら、こちらへ走って来る。一つ閉てるごとに、行く人と、送る人の距離はますます遠くなる。やがて久一さんの車室の戸もぴしゃりとしまった。世界はもう二つに為った。老人は思わず窓側へ寄る。青年は窓から首を出す。
「あぶない。出ますよ」と云う声の下から、未練のない鉄車の音がごっとりごっとりと調子を取って動き出す。窓は一つ一つ、余等の前を通る。久一さんの顔が小さくなって、最後の三等列車が、余の前を通るとき、窓の中から、また一つ顔が出た。
茶色のはげた中折帽の下から、髯だらけな野武士が名残り惜気に首を出した。そのとき、那美さんと野武士は思わず顔を見合せた。鉄車はごとりごとりと運転する。野武士の顔はすぐ消えた。那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐れ」が一面に浮いている。
「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ」と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。