「おい、甲野さん。妙な所に寝ていやはるとさ。女にまで馬鹿にされるぜ。好い加減に起きてあるこうじゃないか」
「女は人を馬鹿にするもんだ」
と甲野さんは依然として天を眺めている。
「そう泰然と尻を据えちゃ困るな。まだ反吐を吐きそうかい」
「動けば吐く」
「厄介だなあ」
「すべての反吐は動くから吐くのだよ。俗界万斛の反吐皆動の一字より来る」
「何だ本当に吐くつもりじゃないのか。つまらない。僕はまたいよいよとなったら、君を担いで麓まで下りなけりゃならんかと思って、内心少々辟易していたんだ」
「余計な御世話だ。誰も頼みもしないのに」
「君は愛嬌のない男だね」
「君は愛嬌の定義を知ってるかい」
「何のかのと云って、一分でも余計動かずにいようと云う算段だな。怪しからん男だ」
「愛嬌と云うのはね、――自分より強いものを斃す柔かい武器だよ」
「それじゃ無愛想は自分より弱いものを、扱き使う鋭利なる武器だろう」
「そんな論理があるものか。動こうとすればこそ愛嬌も必要になる。動けば反吐を吐くと知った人間に愛嬌が入るものか」
「いやに詭弁を弄するね。そんなら僕は御先へ御免蒙るぜ。いいか」
「勝手にするがいい」と甲野さんはやっぱり空を眺めている。
宗近君は脱いだ両袖をぐるぐると腰へ巻き付けると共に、毛脛に纏わる竪縞の裾をぐいと端折って、同じく白縮緬の周囲に畳み込む。最前袖畳にした羽織を桜の杖の先へ引き懸けるが早いか「一剣天下を行く」と遠慮のない声を出しながら、十歩に尽くる岨路を飄然として左へ折れたぎり見えなくなった。
あとは静である。静かなる事定って、静かなるうちに、わが一脈の命を託すると知った時、この大乾坤のいずくにか通う、わが血潮は、粛々と動くにもかかわらず、音なくして寂定裏に形骸を土木視して、しかも依稀たる活気を帯ぶ。生きてあらんほどの自覚に、生きて受くべき有耶無耶の累を捨てたるは、雲の岫を出で、空の朝な夕なを変わると同じく、すべての拘泥を超絶したる活気である。古今来を空しゅうして、東西位を尽くしたる世界のほかなる世界に片足を踏み込んでこそ――それでなければ化石になりたい。赤も吸い、青も吸い、黄も紫も吸い尽くして、元の五彩に還す事を知らぬ真黒な化石になりたい。それでなければ死んで見たい。死は万事の終である。また万事の始めである。時を積んで日となすとも、日を積んで月となすとも、月を積んで年となすとも、詮ずるにすべてを積んで墓となすに過ぎぬ。墓の此方側なるすべてのいさくさは、肉一重の垣に隔てられた因果に、枯れ果てたる骸骨にいらぬ情けの油を注して、要なき屍に長夜の踊をおどらしむる滑稽である。遐なる心を持てるものは、遐なる国をこそ慕え。