「可愛らしいんですよ。ちょうど安珍のようなの」
「安珍は苛い」
許せと云わぬばかりに、今度は受け留めた。
「御不服なの」と女は眼元だけで笑う。
「だって……」
「だって、何が御厭なの」
「私は安珍のように逃げやしません」
これを逃げ損ねの受太刀と云う。坊っちゃんは機を見て奇麗に引き上げる事を知らぬ。
「ホホホ私は清姫のように追っ懸けますよ」
男は黙っている。
「蛇になるには、少し年が老け過ぎていますかしら」
時ならぬ春の稲妻は、女を出でて男の胸をするりと透した。色は紫である。
「藤尾さん」
「何です」
呼んだ男と呼ばれた女は、面と向って対座している。六畳の座敷は緑り濃き植込に隔てられて、往来に鳴る車の響さえ幽かである。寂寞たる浮世のうちに、ただ二人のみ、生きている。茶縁の畳を境に、二尺を隔てて互に顔を見合した時、社会は彼らの傍を遠く立ち退いた。救世軍はこの時太鼓を敲いて市中を練り歩るいている。病院では腹膜炎で患者が虫の気息を引き取ろうとしている。露西亜では虚無党が爆裂弾を投げている。停車場では掏摸が捕まっている。火事がある。赤子が生れかかっている。練兵場で新兵が叱られている。身を投げている。人を殺している。藤尾の兄さんと宗近君は叡山に登っている。
花の香さえ重きに過ぐる深き巷に、呼び交わしたる男と女の姿が、死の底に滅り込む春の影の上に、明らかに躍りあがる。宇宙は二人の宇宙である。脈々三千条の血管を越す、若き血潮の、寄せ来る心臓の扉は、恋と開き恋と閉じて、動かざる男女を、躍然と大空裏に描き出している。二人の運命はこの危うき刹那に定まる。東か西か、微塵だに体を動かせばそれぎりである。呼ぶはただごとではない、呼ばれるのもただごとではない。生死以上の難関を互の間に控えて、羃然たる爆発物が抛げ出されるか、抛げ出すか、動かざる二人の身体は二塊のである。
「御帰りいっ」と云う声が玄関に響くと、砂利を軋る車輪がはたと行き留まった。襖を開ける音がする。小走りに廊下を伝う足音がする。張り詰めた二人の姿勢は崩れた。