「ここだ、ここだ」
と宗近君が急に頭の上で天狗のような声を出す。朽草の土となるまで積み古るしたる上を、踏めば深靴を隠すほどに踏み答えもなきに、甲野さんはようやくの思で、蝙蝠傘を力に、天狗の座まで、登って行く。
「善哉善哉、われ汝を待つ事ここに久しだ。全体何をぐずぐずしていたのだ」
甲野さんはただああと云ったばかりで、いきなり蝙蝠傘を放り出すと、その上へどさりと尻持を突いた。
「また反吐か、反吐を吐く前に、ちょっとあの景色を見なさい。あれを見るとせっかくの反吐も残念ながら収まっちまう」
と例の桜の杖で、杉の間を指す。天を封ずる老幹の亭々と行儀よく並ぶ隙間に、的と近江の湖が光った。
「なるほど」と甲野さんは眸を凝らす。
鏡を延べたとばかりでは飽き足らぬ。琵琶の銘ある鏡の明かなるを忌んで、叡山の天狗共が、宵に偸んだ神酒の酔に乗じて、曇れる気息を一面に吹き掛けたように――光るものの底に沈んだ上には、野と山にはびこる陽炎を巨人の絵の具皿にあつめて、ただ一刷に抹り付けた、瀲たる春色が、十里のほかに糢糊と棚引いている。
「なるほど」と甲野さんはまた繰り返した。
「なるほどだけか。君は何を見せてやっても嬉しがらない男だね」
「見せてやるなんて、自分が作ったものじゃあるまいし」
「そう云う恩知らずは、得て哲学者にあるもんだ。親不孝な学問をして、日々人間と御無沙汰になって……」
「誠に済みません。――親不孝な学問か、ハハハハハ。君白い帆が見える。そら、あの島の青い山を背にして――まるで動かんぜ。いつまで見ていても動かんぜ」
「退屈な帆だな。判然しないところが君に似ていらあ。しかし奇麗だ。おや、こっちにもいるぜ」
「あの、ずっと向うの紫色の岸の方にもある」
「うん、ある、ある。退屈だらけだ。べた一面だ」
「まるで夢のようだ」
「何が」
「何がって、眼前の景色がさ」
「うんそうか。僕はまた君が何か思い出したのかと思った。ものは君、さっさと片付けるに限るね。夢のごとしだって懐手をしていちゃ、駄目だよ」
「何を云ってるんだい」