「え?」と小野さんは俄然として我に帰る。空を掠める子規の、駟も及ばぬに、降る雨の底を突き通して過ぎたるごとく、ちらと動ける異しき色は、疾く収まって、美くしい手は膝頭に乗っている。脈打つとさえ思えぬほどに静かに乗っている。
ぷんとしたクレオパトラの臭は、しだいに鼻の奥から逃げて行く。二千年の昔から不意に呼び出された影の、恋々と遠のく後を追うて、小野さんの心は杳窕の境に誘われて、二千年のかなたに引き寄せらるる。
「そよと吹く風の恋や、涙の恋や、嘆息の恋じゃありません。暴風雨の恋、暦にも録っていない大暴雨の恋。九寸五分の恋です」と小野さんが云う。
「九寸五分の恋が紫なんですか」
「九寸五分の恋が紫なんじゃない、紫の恋が九寸五分なんです」
「恋を斬ると紫色の血が出るというのですか」
「恋が怒ると九寸五分が紫色に閃ると云うのです」
「沙翁がそんな事を書いているんですか」
「沙翁が描いた所を私が評したのです。――安図尼が羅馬でオクテヴィアと結婚した時に――使のものが結婚の報道を持って来た時に――クレオパトラの……」
「紫が嫉妬で濃く染まったんでしょう」
「紫が埃及の日で焦げると、冷たい短刀が光ります」
「このくらいの濃さ加減なら大丈夫ですか」と言う間もなく長い袖が再び閃いた。小野さんはちょっと話の腰を折られた。相手に求むるところがある時でさえ、腰を折らねば承知をせぬ女である。毒気を抜いた女は得意に男の顔を眺めている。
「そこでクレオパトラがどうしました」と抑えた女は再び手綱を緩める。小野さんは馳け出さなければならぬ。
「オクテヴィヤの事を根堀り葉堀り、使のものに尋ねるんです。その尋ね方が、詰り方が、性格を活動させているから面白い。オクテヴィヤは自分のように背が高いかの、髪の毛はどんな色だの、顔が丸いかの、声が低いかの、年はいくつだのと、どこまでも使者を追窮します。……」