「母が帰って来たのです」と女は坐ったまま、何気なく云う。
「ああ、そうですか」と男も何気なく答える。心を判然と外に露わさぬうちは罪にはならん。取り返しのつく謎は、法庭の証拠としては薄弱である。何気なく、もてなしている二人は、互に何気のあった事を黙許しながら、何気なく安心している。天下は太平である。何人も後指を指す事は出来ぬ。出来れば向うが悪るい。天下はあくまでも太平である。
「御母さんは、どちらへか行らしったんですか」
「ええ、ちょっと買物に出掛けました」
「だいぶ御邪魔をしました」と立ち懸ける前に居住をちょっと繕ろい直す。洋袴の襞の崩れるのを気にして、常は出来るだけ楽に坐る男である。いざと云えば、突っかい棒に、尻を挙げるための、膝頭に揃えた両手は、雪のようなカフスに甲まで蔽われて、くすんだ鼠縞の袖の下から、七宝の夫婦釦が、きらりと顔を出している。
「まあ御緩くりなさい。母が帰っても別に用事はないんですから」と女は帰った人を迎える気色もない。男はもとより尻を上げるのは厭である。
「しかし」と云いながら、隠袋の中を捜ぐって、太い巻煙草を一本取り出した。煙草の煙は大抵のものを紛らす。いわんやこれは金の吸口の着いた埃及産である。輪に吹き、山に吹き、雲に吹く濃き色のうちには、立ち掛けた腰を据え直して、クレオパトラと自分の間隔を少しでも詰める便が出来んとも限らぬ。
薄い煙りの、黒い口髭を越して、ゆたかに流れ出した時、クレオパトラは果然、
「まあ、御坐り遊ばせ」と叮嚀な命令を下した。
男は無言のまま再び膝を崩す。御互に春の日は永い。
「近頃は女ばかりで淋しくっていけません」
「甲野君はいつ頃御帰りですか」
「いつ頃帰りますか、ちっとも分りません」