過去の節穴を塞ぎかけたものは現在に満足する。現在が不景気だと未来を製造する。小野さんの現在は薔薇である。薔薇の蕾である。小野さんは未来を製造する必要はない。蕾んだ薔薇を一面に開かせればそれが自からなる彼の未来である。未来の節穴を得意の管から眺めると、薔薇はもう開いている。手を出せば捕まえられそうである。早く捕まえろと誰かが耳の傍で云う。小野さんは博士論文を書こうと決心した。
論文が出来たから博士になるものか、博士になるために論文が出来るものか、博士に聞いて見なければ分らぬが、とにかく論文を書かねばならぬ。ただの論文ではならぬ、必ず博士論文でなくてはならぬ。博士は学者のうちで色のもっとも見事なるものである。未来の管を覗くたびに博士の二字が金色に燃えている。博士の傍には金時計が天から懸っている。時計の下には赤い柘榴石が心臓の焔となって揺れている。その側に黒い眼の藤尾さんが繊い腕を出して手招ぎをしている。すべてが美くしい画である。詩人の理想はこの画の中の人物となるにある。
昔しタンタラスと云う人があった。わるい事をした罰で、苛い目に逢うたと書いてある。身体は肩深く水に浸っている。頭の上には旨そうな菓物が累々と枝をたわわに結実っている。タンタラスは咽喉が渇く。水を飲もうとすると水が退いて行く。タンタラスは腹が減る。菓物を食おうとすると菓物が逃げて行く。タンタラスの口が一尺動くと向うでも一尺動く。二尺前むと向うでも二尺前む。三尺四尺は愚か、千里を行き尽しても、タンタラスは腹が減り通しで、咽喉が渇き続けである。おおかた今でも水と菓物を追っ懸けて歩いてるだろう。――未来の管を覗くたびに、小野さんは、何だかタンタラスの子分のような気がする。それのみではない。時によると藤尾さんがつんと澄ましている事がある。長い眉を押しつけたように短かくして、屹と睨めている事がある。柘榴石がぱっと燃えて、のなかに、女の姿が、包まれながら消えて行く事がある。博士の二字がだんだん薄くなって剥げながら暗くなる事がある。時計が遥かな天から隕石のように落ちて来て、割れる事がある。その時はぴしりと云う音がする。小野さんは詩人であるからいろいろな未来を描き出す。
机の前に頬杖を突いて、色硝子の一輪挿をぱっと蔽う椿の花の奥に、小野さんは、例によって自分の未来を覗いている。幾通りもある未来のなかで今日は一層出来がわるい。
「この時計をあなたに上げたいんだけれどもと女が云う。どうか下さいと小野さんが手を出す。女がその手をぴしゃりと平手でたたいて、御気の毒様もう約束済ですと云う。じゃ時計は入りません、しかしあなたは……と聞くと、私? 私は無論時計にくっ付いているんですと向をむいて、すたすた歩き出す」