小野さんは、ここまで未来をこしらえて見たが、余り残刻なのに驚いて、また最初から出直そうとして、少し痛くなり掛けたを持ち上げると、障子が、すうと開いて、御手紙ですと下女が封書を置いて行く。
「小野清三様」と子昂流にかいた名宛を見た時、小野さんは、急に両肱に力を入れて、机に持たした体を跳ねるように後へ引いた。未来を覗く椿の管が、同時に揺れて、唐紅の一片がロゼッチの詩集の上に音なしく落ちて来る。完き未来は、はや崩れかけた。
小野さんは机に添えて左りの手を伸したまま、顔を斜めに、受け取った封書を掌の上に遠くから眺めていたが、容易に裏を返さない。返さんでもおおかたの見当はついている。ついていればこそ返しにくい。返した暁に推察の通りであったなら、それこそ取り返しがつかぬ。かつて亀に聞いた事がある。首を出すと打たれる。どうせ打たれるとは思いながら、出来るならばと甲羅の中に立て籠る。打たれる運命を眼前に控えた間際でも、一刻の首は一刻だけ縮めていたい。思うに小野さんは事実の判決を一寸に逃れる学士の亀であろう。亀は早晩首を出す。小野さんも今に封筒の裏を返すに違ない。
良しばらく眺めていると今度は掌がむず痒ゆくなる。一刻の安きを貪った後は、安き思を、なお安くするために、裏返して得心したくなる。小野さんは思い切って、封筒を机の上に逆に置いた。裏から井上孤堂の四字が明かにあらわれる。白い状袋に墨を惜しまず肉太に記した草字は、小野さんの眼に、針の先を並べて植えつけたように紙を離れて飛びついて来た。
小野さんは障らぬ神に祟なしと云う風で、両手を机から離す。ただ顔だけが机の上の手紙に向いている。しかし机と膝とは一尺の谷で縁が切れている。机から引き取った手は、ぐにゃりとして何だか肩から抜けて行きそうだ。
封を切ろうか、切るまいか。だれか来て封を切れと云えば切らぬ理由を説明して、ついでに自分も安心する。しかし人を屈伏させないととうてい自分も屈伏させる事が出来ない。あやふやな柔術使は、一度往来で人を抛げて見ないうちはどうも柔術家たる所以を自分に証明する道がない。弱い議論と弱い柔術は似たものである。小野さんは京都以来の友人がちょっと遊びに来てくれればいいと思った。