二階の書生がヴァイオリンを鳴らし始めた。小野さんも近日うちにヴァイオリンの稽古を始めようとしている。今日はそんな気もいっこう起らぬ。あの書生は呑気で羨しいと思う。――椿の花片がまた一つ落ちた。
一輪挿を持ったまま障子を開けて椽側へ出る。花は庭へ棄てた。水もついでにあけた。花活は手に持っている。実は花活もついでに棄てるところであった。花活を持ったまま椽側に立っている。檜がある。塀がある。向に二階がある。乾きかけた庭に雨傘が干してある。蛇の目の黒い縁に落花が二片貼ついている。その他いろいろある。ことごとく無意義にある。みんな器械的である。
小野さんは重い足を引き擦ってまた部屋のなかへ這入って来た。坐らずに机の前に立っている。過去の節穴がすうと開いて昔の歴史が細長く遠くに見える。暗い。その暗いなかの一点がぱっと燃え出した。動いて来る。小野さんは急に腰を屈めて手を伸ばすや否や封を切った。