芭蕉布の襖を開けると、押入の上段は夜具、下には柳行李が見える。小野さんは行李の上に畳んである背広を出して手早く着換え終る。帽子は壁に主を待つ。がらりと障子を明けて、赤い鼻緒の上草履に、カシミヤの靴足袋を無理に突き込んだ時、下女が来る。
「おや御出掛。少し御待ちなさいよ」
「何だ」と草履から顔を上げる。下女は笑っている。
「何か用かい」
「ええ」とやっぱり笑っている。
「何だ。冗談か」と行こうとすると、卸し立ての草履が片方足を離れて、拭き込んだ廊下を洋灯部屋の方へ滑って行く。
「ホホホホ余まり周章るもんだから。御客様ですよ」
「誰だい」
「あら待ってた癖に空っとぼけて……」
「待ってた? 何を」
「ホホホホ大変真面目ですね」と笑いながら、返事も待たず、入口へ引き返す。小野さんは気掛な顔をして障子の傍に上草履を揃えたまま廊下の突き当りを眺めている。何が出てくるかと思う。焦茶の中折が鴨居を越すほどの高い背を伸して、薄暗い廊下のはずれに折目正しく着こなした背広の地味なだけに、胸開の狭い胴衣から白い襯衣と白い襟が著るしく上品に見える。小野さんは姿よく着こなした衣裳を、見栄のせぬ廊下の片隅に、中ぶらりんに落ちつけて、光る眼鏡を斜めに、突き当りを眺めている。何が出てくるのかと思いながら眺めている。両手を洋袴の隠袋に挿し込むのは落ちつかぬ時の、落ちついた姿である。
「そこを曲ると真直です」と云う下女の声が聞えたと思うと、すらりと小夜子の姿が廊下の端にあらわれた。海老茶色の緞子の片側が竜紋の所だけ異様に光線を射返して見える。在来りの銘仙の袷を、白足袋の甲を隠さぬほどに着て、きりりと角を曲った時、長襦袢らしいものがちらと色めいた。同時に遮ぎるものもない中廊下に七歩の間隔を置いて、男女の視線は御互の顔の上に落ちる。
男はおやと思う。姿勢だけは崩さない。女ははっと躊躇う。やがて頬に差す紅を一度にかくして、乱るる笑顔を肩共に落す。油を注さぬ黒髪に、漣の琥珀に寄る幅広の絹の色が鮮な翼を片鬢に張る。