「先生にはやはり京都の方が好くはないですか」と女の躊躇った気色をどう解釈したか、小野さんは再び問い掛けた。
「東京へ来る前は、しきりに早く移りたいように云ってたんですけれども、来て見るとやはり住み馴れた所が好いそうで」
「そうですか」と小野さんはおとなしく受けたが、心の中ではそれほど性に合わない所へなぜ出て来たのかと、自分の都合を考えて多少馬鹿らしい気もする。
「あなたは」と聞いて見る。
小夜子はまた口籠る。東京が好いか悪いかは、目の前に、西洋の臭のする煙草を燻らしている青年の心掛一つできまる問題である。船頭が客人に、あなたは船が好きですかと聞いた時、好きも嫌も御前の舵の取りよう一つさと答えなければならない場合がある。責任のある船頭にこんな質問を掛けられるほど腹の立つ事はないように、自分の好悪を支配する人間から、素知らぬ顔ですきかきらいかを尋ねられるのは恨めしい。小夜子はまた口籠る。小野さんはなぜこう豁達せぬのかと思う。
胴衣の隠袋から時計を出して見る。
「どちらへか御出掛で」と女はすぐ悟った。
「ええ、ちょっと」と旨い具合に渡し込む。
女はまた口籠る。男は少し焦慮くなる。藤尾が待っているだろう。――しばらくは無言である。
「実は父が……」と小夜子はやっとの思で口を切った。
「はあ、何か御用ですか」
「いろいろ買物がしたいんですが……」
「なるほど」
「もし、御閑ならば、小野さんにいっしょに行っていただいて勧工場ででも買って来いと申しましたから」
「はあ、そうですか。そりゃ、残念な事で。ちょうど今から急いで出なければならない所があるもんですからね。――じゃ、こうしましょう。品物の名を聞いて置いて、私が帰りに買って晩に持って行きましょう」
「それでは御気の毒で……」
「何構いません」
父の好意は再び水泡に帰した。小夜子は悄然として帰る。小野さんは、脱いだ帽子を頭へ載せて手早く表へ出る。――同時に逝く春の舞台は廻る。