静かな椽に足音がする。背の高い影がのっと現われた。絣の袷の前が開いて、肌につけた鼠色の毛織の襯衣が、長い三角を逆様にして胸に映る上に、長い頸がある、長い顔がある。顔の色は蒼い。髪は渦を捲いて、二三ヵ月は刈らぬと見える。四五日は櫛を入れないとも思われる。美くしいのは濃い眉と口髭である。髭の質は極めて黒く、極めて細い。手を入れぬままに自然の趣を具えて何となく人柄に見える。腰は汚れた白縮緬を二重に周して、長過ぎる端を、だらりと、猫じゃらしに、右の袂の下で結んでいる。裾は固より合わない。引き掛けた法衣のようにふわついた下から黒足袋が見える。足袋だけは新らしい。嗅げば紺の匂がしそうである。古い頭に新らしい足の欽吾は、世を逆様に歩いて、ふらりと椽側へ出た。
拭き込んだ細かい柾目の板が、雲斎底の影を写すほどに、軽く足音を受けた時に、藤尾の背中に背負った黒い髪はさらりと動いた。途端に椽に落ちた紺足袋が女の眼に這入る。足袋の主は見なくても知れている。
紺足袋は静かに歩いて来た。
「藤尾」
声は後でする。雨戸の溝をすっくと仕切った栂の柱を背に、欽吾は留ったらしい。藤尾は黙っている。
「また夢か」と欽吾は立ったまま、癖のない洗髪を見下した。
「何です」と云いなり女は、顔を向け直した。赤棟蛇の首を擡げた時のようである。黒い髪に陽炎を砕く。
男は、眼さえ動かさない。蒼い顔で見下している。向き直った女の額をじっと見下している。
「昨夕は面白かったかい」
女は答える前に熱い団子をぐいと嚥み下した。
「ええ」と極めて冷淡な挨拶をする。
「それは好かった」と落ちつき払って云う。