石仏に愛なし、色は出来ぬものと始から覚悟をきめているからである。愛は愛せらるる資格ありとの自信に基いて起る。ただし愛せらるるの資格ありと自信して、愛するの資格なきに気のつかぬものがある。この両資格は多くの場合において反比例する。愛せらるるの資格を標榜して憚からぬものは、いかなる犠牲をも相手に逼る。相手を愛するの資格を具えざるがためである。たる美目に魂を打ち込むものは必ず食われる。小野さんは危い。倩たる巧笑にわが命を托するものは必ず人を殺す。藤尾は丙午である。藤尾は己れのためにする愛を解する。人のためにする愛の、存在し得るやと考えた事もない。詩趣はある。道義はない。
愛の対象は玩具である。神聖なる玩具である。普通の玩具は弄ばるるだけが能である。愛の玩具は互に弄ぶをもって原則とする。藤尾は男を弄ぶ。一毫も男から弄ばるる事を許さぬ。藤尾は愛の女王である。成立つものは原則を外れた恋でなければならぬ。愛せらるる事を専門にするものと、愛する事のみを念頭に置くものとが、春風の吹き回しで、旨い潮の満干で、はたりと天地の前に行き逢った時、この変則の愛は成就する。
我を立てて恋をするのは、火事頭巾を被って、甘酒を飲むようなものである。調子がわるい。恋はすべてを溶かす。角張った絵紙鳶も飴細工であるからは必ず流れ出す。我は愛の水に浸して、三日三晩の長きに渉ってもふやける気色を見せぬ。どこまでも堅く控えている。我を立てて恋をするものは氷砂糖である。
沙翁は女を評して脆きは汝が名なりと云った。脆きが中に我を通す昂れる恋は、炊ぎたる飯の柔らかきに御影の砂を振り敷いて、心を許す奥歯をがりがりと寒からしむ。噛み締めるものに護謨の弾力がなくては無事には行かぬ。我の強い藤尾は恋をするために我のない小野さんを択んだ。蜘蛛の囲にかかる油蝉はかかっても暴れて行かぬ。時によると網を破って逃げる事がある。宗近君を捕るは容易である。宗近君を馴らすは藤尾といえども困難である。我の女は顋で相図をすれば、すぐ来るものを喜ぶ。小野さんはすぐ来るのみならず、来る時は必ず詩歌の璧を懐に抱いて来る。夢にだもわれを弄ぶの意思なくして、満腔の誠を捧げてわが玩具となるを栄誉と思う。彼を愛するの資格をわれに求むる事は露知らず、ただ愛せらるべき資格を、わが眼に、わが眉に、わが唇に、さてはわが才に認めてひたすらに渇仰する。藤尾の恋は小野さんでなくてはならぬ。