神聖とは自分一人が玩具にして、外の人には指もささせぬと云う意味である。昨夕から小野さんは神聖でなくなった。それのみか向うでこっちを玩具にしているかも知れぬ。――肱を持たして、俯向くままの藤尾の眉が活きて来る。
玩具にされたのならこのままでは置かぬ。我は愛を八つ裂にする。面当はいくらもある。貧乏は恋を乾干にする。富貴は恋を贅沢にする。功名は恋を犠牲にする。我は未練な恋を踏みつける。尖る錐に自分の股を刺し通して、それ見ろと人に示すものは我である。自己がもっとも価ありと思うものを捨てて得意なものは我である。我が立てば、虚栄の市にわが命さえ屠る。逆しまに天国を辞して奈落の暗きに落つるセータンの耳を切る地獄の風は我! 我! と叫ぶ。――藤尾は俯向ながら下唇を噛んだ。
逢わぬ四五日は手紙でも出そうかと思っていた。昨夕帰ってからすぐ書きかけて見たが、五六行かいた後で何をとずたずたに引き裂いた。けっして書くまい。頭を下げて先方から折れて出るのを待っている。だまっていればきっと出てくる。出てくれば謝罪らせる。出て来なければ? 我はちょっと困った。手の届かぬところに我を立てようがない。――なに来る、きっと来る、と藤尾は口の中で云う。知らぬ小野さんははたして我に引かれつつある。来つつある。
よし来ても昨夜の女の事は聞くまい。聞けばあの女を眼中に置く事になる。昨夕食卓で兄と宗近が妙な合言葉を使っていた。あの女と小野の関係を聞えよがしに、自分を焦らす料簡だろう。頭を下げて聞き出しては我が折れる。二人で寄ってたかって人を馬鹿にするつもりならそれでよい。二人が仄かした事実の反証を挙げて鼻をあかしてやる。
小野はどうしても詫らせなければならぬ。つらく当って詫らせなければならぬ。同時に兄と宗近も詫らせなければならぬ。小野は全然わがもので、調戯面にあてつけた二人の悪戯は何の役にも立たなかった、見ろこの通りと親しいところを見せつけて、鼻をあかして詫らせなければならぬ。――藤尾は矛盾した両面を我の一字で貫こうと、洗髪の後に顔を埋めて考えている。