小野さんはああの後から何か出て来るだろうと思って、控えている。時鳥は一声で雲に入ったらしい。
「一人で行ったのかい」と今度はこちらから聞いて見る。
「いいや。誘われたから行った」
甲野さんにははたして連があった。小野さんはもう少し進んで見なければ済まないようになる。
「そうかい、奇麗だったろう」とまず繋ぎに出して置いて、そのうちに次の問を考える事にする。ところが甲野さんは簡単に
「うん」の一句で答をしてしまう。こっちは考のまとまらないうち、すぐ何とか付けなければならぬ。始めは「誰と?」と聞こうとしたが、聞かぬ前にいや「何時頃?」の方が便宜ではあるまいかと思う。いっそ「僕も行った」と打って出ようか知ら、そうしたら先方の答次第で万事が明暸になる。しかしそれもいらぬ事だ。――小野さんは胸の上、咽喉の奥でしばらく押問答をする。その間に甲野さんは細い杖の先を一尺ばかり動かした。杖のあとに動くものは足である。この相図をちらりと見て取った小野さんはもう駄目だ、よそうと咽喉の奥でせっかくの計画をほごしてしまう。爪の垢ほど先を制せられても、取り返しをつけようと意思を働かせない人は、教育の力では翻えす事の出来ぬ宿命論者である。
「まあ行きたまえ」とまた甲野さんが云う。催促されるような気持がする。運命が左へと指図をしたらしく感じた時、後から押すものがあれば、すぐ前へ出る。
「じゃあ……」と小野さんは帽子をとる。
「そうか、じゃあ失敬」と細い杖は空間を二尺ばかり小野さんから遠退いた。一歩門へ近寄った小野さんの靴は同時に一歩杖に牽かれて故へ帰る。運命は無限の空間に甲野さんの杖と小野さんの足を置いて、一尺の間隔を争わしている。この杖とこの靴は人格である。我らの魂は時あって靴の踵に宿り、時あって杖の先に潜む。魂を描く事を知らぬ小説家は杖と靴とを描く。
一歩の空間を行き尽した靴は、光る頭を回らして、棄身に細い体を大地に托した杖に問いかけた。
「藤尾さんも、昨夕いっしょに行ったのかい」
棒のごとく真直に立ち上がった杖は答える。
「ああ、藤尾も行った。――ことに因ると今日は下読が出来ていないかも知れない」
細い杖は地に着くがごとく、また地を離るるがごとく、立つと思えば傾むき、傾むくと思えば立ち、無限の空間を刻んで行く。光る靴は突き込んだ頭に薄い泥を心持わるく被ったまま、遠慮勝に門内の砂利を踏んで玄関に掛かる。