小野さんが玄関に掛かると同時に、藤尾は椽の柱に倚りながら、席に返らぬ爪先を、雨戸引く溝の上に翳して、手広く囲い込んだ庭の面を眺めている。藤尾が椽の柱に倚りかかるよほど前から、謎の女は立て切った一間のうちで、鳴る鉄瓶を相手に、行く春の行き尽さぬ間を、根限り考えている。
欽吾はわが腹を痛めぬ子である。――謎の女の考は、すべてこの一句から出立する。この一句を布衍すると謎の女の人生観になる。人生観を増補すると宇宙観が出来る。謎の女は毎日鉄瓶の音を聞いては、六畳敷の人生観を作り宇宙観を作っている。人生観を作り宇宙観を作るものは閑のある人に限る。謎の女は絹布団の上でその日その日を送る果報な身分である。
居住は心を正す。端然と恋に焦れたもう雛は、虫が喰うて鼻が欠けても上品である。謎の女はしとやかに坐る。六畳敷の人生観もまたしとやかでなくてはならぬ。
老いて夫なきは心細い。かかるべき子なきはなおさら心細い。かかる子が他人なるは心細い上に忌わしい。かかるべき子を持ちながら、他人にかからねばならぬ掟は忌わしいのみか情けない。謎の女は自を情ない不幸の人と信じている。
他人でも合わぬとは限らぬ。醤油と味淋は昔から交っている。しかし酒と煙草をいっしょに呑めば咳が出る。親の器の方円に応じて、盛らるる水の調子を合わせる欽吾ではない。日を経れば日を重ねて隔りの関が出来る。この頃は江戸の敵に長崎で巡り逢ったような心持がする。学問は立身出世の道具である。親の機嫌に逆って、師走正月の拍子をはずすための修業ではあるまい。金を掛けてわざわざ変人になって、学校を出ると世間に通用しなくなるのは不名誉である。外聞がわるい。嗣子としては不都合と思う。こんなものに死水を取って貰う気もないし、また取るほどの働のあるはずがない。
幸と藤尾がいる。冬を凌ぐ女竹の、吹き寄せて夜を積る粉雪をぴんと撥ねる力もある。十目を街頭に集むる春の姿に、蝶を縫い花を浮かした派出な衣裳も着せてある。わが子として押し出す世間は広い。晴れた天下を、晴れやかに練り行くを、迷うは人の随意である。三国一の婿と名乗る誰彼を、迷わしてこそ、焦らしてこそ、育て上げた母の面目は揚る。海鼠の氷ったような他人にかかるよりは、羨しがられて華麗に暮れては明ける実の娘の月日に添うて墓に入るのが順路である。