蘭は幽谷に生じ、剣は烈士に帰す。美くしき娘には、名ある聟を取らねばならぬ。申込はたくさんあるが、娘の気に入らぬものは、自分の気に入らぬものは、役に立たぬ。指の太さに合わぬ指輪は貰っても捨てるばかりである。大き過ぎても小さ過ぎても聟には出来ぬ。したがって聟は今日まで出来ずにいた。燦として群がるもののうちにただ一人小野さんが残っている。小野さんは大変学問のできる人だと云う。恩賜の時計をいただいたと云う。もう少し立つと博士になると云う。のみならず愛嬌があって親切である。上品で調子がいい。藤尾の聟として恥ずかしくはあるまい。世話になっても心持がよかろう。
小野さんは申分のない聟である。ただ財産のないのが欠点である。しかし聟の財産で世話になるのは、いかに気に入った男でも幅が利かぬ。無一物の某を入れて、おとなしく嫁姑を大事にさせるのが、藤尾の都合にもなる、自分のためでもある。一つ困る事はその財産である。夫が外国で死んだ四ヵ月後の今日は当然欽吾の所有に帰してしまった。魂胆はここから始まる。
欽吾は一文の財産もいらぬと云う。家も藤尾にやると云う。義理の着物を脱いで便利の赤裸になれるものなら、降って湧いた温泉へ得たり賢こしと飛び込む気にもなる。しかし体裁に着る衣裳はそう無雑作に剥ぎ取れるものではない。降りそうだから傘をやろうと投げ出した時、二本あれば遠慮をせぬが世間であるが、見す見すくれる人が濡れるのを構わずにわがままな手を出すのは人の思わくもある。そこに謎が出来る。くれると云うのは本気で云う嘘で、取らぬ顔つきを見せるのも隣近所への申訳に過ぎない。欽吾の財産を欽吾の方から無理に藤尾に譲るのを、厭々ながら受取った顔つきに、文明の手前を繕わねばならぬ。そこで謎が解ける。くれると云うのを、くれたくない意味と解いて、貰う料簡で貰わないと主張するのが謎の女である。六畳敷の人生観はすこぶる複雑である。
謎の女は問題の解決に苦しんでとうとう六畳敷を出た。貰いたいものを飽くまで貰わないと主張して、しかも一日も早く貰ってしまう方法は微分積分でも容易に発見の出来ぬ方法である。謎の女が苦し紛れの屈託顔に六畳敷を出たのは、焦慮いが高じて、布団の上に坐たたまれないからである。出て見ると春の日は存外長閑で、平気に鬢を嬲る温風はいやに人を馬鹿にする。謎の女はいよいよ気色が悪くなった。