椽を左に突き当れば西洋館で、応接間につづく一部屋は欽吾が書斎に使っている。右は鍵の手に折れて、折れたはずれの南に突き出した六畳が藤尾の居間となる。
菱餅の底を渡る気で真直な向う角を見ると藤尾が立っている。濡色に捌いた濃き鬢のあたりを、栂の柱に圧しつけて、斜めに持たした艶な姿の中ほどに、帯深く差し込んだ手頸だけが白く見える。萩に伏し薄に靡く故里を流離人はこんな風に眺める事がある。故里を離れぬ藤尾は何を眺めているか分らない。母は椽を曲って近寄った。
「何を考えているの」
「おや、御母さん」と斜めな身体を柱から離す。振り返った眼つきには愁の影さえもない。我の女と謎の女は互に顔を見合した。実の親子である。
「どうかしたのかい」と謎が云う。
「なぜ」と我が聞き返す。
「だって、何だか考え込んでいるからさ」
「何にも考えていやしません。庭の景色を見ていたんです」
「そう」と謎は意味のある顔つきをした。
「池の緋鯉が跳ねますよ」と我は飽くまでも主張する。なるほど濁った水のなかで、ぽちゃりと云う音がした。
「おやおや。――御母さんの部屋では少しも聞えないよ」
聞えないんではない。謎で夢中になっていたのである。
「そう」と今度は我の方で意味のある顔つきをする。世はさまざまである。
「おや、もう蓮の葉が出たね」
「ええ。まだ気がつかなかったの」
「いいえ。今始て」と謎が云う。謎ばかり考えているものは迂濶である。欽吾と藤尾の事を引き抜くと頭は真空になる。蓮の葉どころではない。
蓮の葉が出たあとには蓮の花が咲く。蓮の花が咲いたあとには蚊帳を畳んで蔵へ入れる。それから蟋蟀が鳴く。時雨れる。木枯が吹く。……謎の女が謎の解決に苦しんでいるうちに世の中は変ってしまう。それでも謎の女は一つ所に坐って謎を解くつもりでいる。謎の女は世の中で自分ほど賢いものはないと思っている。迂濶だなどとは夢にも考えない。