緋鯉ががぽちゃりとまた跳ねる。薄濁のする水に、泥は沈んで、上皮だけは軽く温む底から、朦朧と朱い影が静かな土を動かして、浮いて来る。滑らかな波にきらりと射す日影を崩さぬほどに、尾を揺っているかと思うと、思い切ってぽんと水を敲いて飛びあがる。一面に揚る泥の濃きうちに、幽かなる朱いものが影を潜めて行く。温い水を背に押し分けて去る痕は、一筋のうねりを見せて、去年の蘆を風なきに嬲る。甲野さんの日記には鳥入雲無迹、魚行水有紋と云う一聯が律にも絶句にもならず、そのまま楷書でかいてある。春光は天地を蔽わず、任意に人の心を悦ばしむ。ただ謎の女には幸せぬ。
「何だって、あんなに跳ねるんだろうね」と聞いた。謎の女が謎を考えるごとく、緋鯉もむやみに跳ねるのであろう。酔狂と云えば双方とも酔狂である。藤尾は何とも答えなかった。
浮き立ての蓮の葉を称して支那の詩人は青銭を畳むと云った。銭のような重い感じは無論ない。しかし水際に始めて昨日、今日の嫩い命を托して、娑婆の風に薄い顔を曝すうちは銭のごとく細かである。色も全く青いとは云えぬ。美濃紙の薄きに過ぎて、重苦しと碧を厭う柔らかき茶に、日ごとに冒す緑青を交ぜた葉の上には、鯉の躍った、春の名残が、吹けば飛ぶ、置けば崩れぬ珠となって転がっている。――答をせぬ藤尾はただ眼前の景色を眺める。鯉はまた躍った。
母は無意味に池の上をていたが、やがて気を換えて
「近頃、小野さんは来ないようだね。どうかしたのかい」と聞いて見る。
藤尾は屹と向き直った。
「どうしたんですか」とじっと母を見た上で、澄してまた庭の方へ眸を反らす。母はおやと思う。さっきの鯉が薄赤く浮葉の下を通る。葉は気軽に動く。
「来ないなら、何とか云って来そうなもんだね。病気でもしているんじゃないか」
「病気だって?」と藤尾の声は疳走るほどに高かった。
「いいえさ。病気じゃないかと聞くのさ」
「病気なもんですか」