迷っている男の鼻面を掠めて、黒い影が颯と横切って過ぎた。男はあっと思う間に先を越されてしまう。仕方がないから、
「奇麗でしたろう」とつける。奇麗でしたろうは詩人として余り平凡である。口に出した当人も、これはひどいと自覚した。
「奇麗でした」と女は明確受け留める。後から
「人間もだいぶ奇麗でした」と浴びせるように付け加えた。小野さんは思わず藤尾の顔を見る。少し見当がつき兼ねるので
「そうでしたか」と云った。当り障りのない答は大抵の場合において愚な答である。弱身のある時は、いかなる詩人も愚をもって自ら甘んずる。
「奇麗な人間もだいぶ見ましたよ」と藤尾は鋭どく繰り返した。何となく物騒な句である。なんだか無事に通り抜けられそうにない。男は仕方なしに口を緘んだ。女も留ったまま動かない。まだ白状しない気かと云う眼つきをして小野さんを見ている。宗盛と云う人は刀を突きつけられてさえ腹を切らなかったと云う。利害を重んずる文明の民が、そう軽卒に自分の損になる事を陳述する訳がない。小野さんはもう少し敵の動静を審にする必要がある。
「誰か御伴がありましたか」と何気なく聴いて見る。
今度は女の返事がない。どこまでも一つ関所を守っている。
「今、門の所で甲野さんに逢ったら、甲野さんもいっしょに行ったそうですね」
「それほど知っていらっしゃる癖に、何で御尋ねになるの」と女はつんと拗ねた。
「いえ、別に御伴でもあったのかと思って」と小野さんは、うまく逃げる。
「兄の外にですか」
「ええ」
「兄に聞いて御覧になればいいのに」
機嫌は依然として悪いが、うまくすると、どうか、こうか渦の中を漕ぎ抜けられそうだ。向うの言葉にぶら下がって、往ったり来たりするうちに、いつの間にやら平地へ出る事がある。小野さんは今まで毎度この手で成功している。
「甲野君に聞こうと思ったんですけれども、早く上がろうとして急いだもんですから」
「ホホホ」と突然藤尾は高く笑った。男はぎょっとする。その隙に
「そんなに忙しいものが、何で四五日無届欠席をしたんです」と飛んで来た。
「いえ、四五日大変忙しくって、どうしても来られなかったんです」
「昼間も」と女は肩を後へ引く。長い髪が一筋ごとに活きているように動く。
「ええ?」と変な顔をする。
「昼間もそんなに忙しいんですか」
「昼間って……」