同時に杖の音はとまる。甲野さんは帽の廂の下から女の顔を久しぶりのように見た。女は急に眼をはずして、細い杖の先を眺める。杖の先から熱いものが上って、顔がぽうとほてる。油を抜いて、なすがままにふくらました髪を、落すがごとく前に、糸子は腰を折った。
「御出?」と甲野さんは言葉の尻を上げて簡単に聞く。
「今ちょっと」と答えたのみで、苦のない二重瞼に愛嬌の波が寄った。
「御留守ですか。――阿爺さんは」
「父は謡の会で朝から出ました」
「そう」と男は長い体躯を、半分回して、横顔を糸子の方へ向けた。
「まあ、御這入、――兄はもう帰りましょう」
「ありがとう」と甲野さんは壁に物を云う。
「どうぞ」と誘い込むように片足を後へ引いた。着物はあらい縞の銘仙である。
「ありがとう」
「どうぞ」
「どこへ行ったんです」と甲野さんは壁に向けた顔を、少し女の方へ振り直す。後から掠めて来る日影に、蒼い頬が、気のせいか、昨日より少し瘠けたようだ。
「散歩でしょう」と女は首を傾けて云う。
「私も今散歩した帰りだ。だいぶ歩いて疲れてしまって……」
「じゃ、少し上がって休んでいらっしゃい。もう帰る時分ですから」
話は少しずつ延びる。話の延びるのは気の延びた証拠である。甲野さんは粗柾の俎下駄を脱いで座敷へ上がる。
長押作りに重い釘隠を打って、動かぬ春の床には、常信の雲竜の図を奥深く掛けてある。薄黒く墨を流した絹の色を、角に取り巻く紋緞子の藍に、寂びたる時代は、象牙の軸さえも落ちついている。唐獅子を青磁に鋳る、口ばかりなる香炉を、どっかと据えた尺余の卓は、木理に光沢ある膏を吹いて、茶を紫に、紫を黒に渡る、胡麻濃やかな紫檀である。