椽に遅日多し、世をひたすらに寒がる人は、端近く絣の前を合せる。乱菊に襟晴れがましきを豊なる顎に圧しつけて、面と向う障子の明なるを眩く思う女は入口に控える。八畳の座敷は眇たる二人を離れ離れに容れて広過ぎる。間は六尺もある。
忽然として黒田さんが現れた。小倉の襞を飽くまで潰した袴の裾から赭黒い足をにょきにょきと運ばして、茶を持って来る。煙草盆を持って来る。菓子鉢を持って来る。六尺の距離は格のごとく埋められて、主客の位地は辛うじて、接待の道具で繋がれる。忽然として午睡の夢から起きた黒田さんは器械的に縁の糸を二人の間に渡したまま、朦朧たる精神を毬栗頭の中に封じ込めて、再び書生部屋へ引き下がる。あとは故の空屋敷となる。
「昨夕は、どうでした。疲れましたろう」
「いいえ」
「疲れない? 私より丈夫だね」と甲野さんは少し笑い掛けた。
「だって、往復共電車ですもの」
「電車は疲れるもんですがね」
「どうして」
「あの人で。あの人で疲れます。そうでも無いですか」
糸子は丸い頬に片靨を見せたばかりである。返事はしなかった。
「面白かったですか」と甲野さんが聞く。
「ええ」
「何が面白かったですか。イルミネーションがですか」
「ええ、イルミネーションも面白かったけれども……」
「イルミネーションのほかに何か面白いものが有ったんですか」
「ええ」
「何が」
「でもおかしいわ」と首を傾げて愛らしく笑っている。要領を得ぬ甲野さんも何となく笑いたくなる。
「何ですかその面白かったものは」
「云って見ましょうか」
「云って御覧なさい」
「あの、皆して御茶を飲んだでしょう」
「ええ、あの御茶が面白かったんですか」
「御茶じゃないんです。御茶じゃないんですけれどもね」
「ああ」