「そうかな」と甲野さんは椽側の方を見た。野面の御影に、乾かぬ露が降りて、いつまでも湿とりと眺められる径二尺の、縁を択んで、鷺草とも菫とも片づかぬ花が、数を乏しく、行く春を偸んで、ひそかに咲いている。
「美しい花が咲いている」
「どこに」
糸子の目には正面の赤松と根方にあしらった熊笹が見えるのみである。
「どこに」と暖い顎を延ばして向を眺める。
「あすこに。――そこからは見えない」
糸子は少し腰を上げた。長い袖をふらつかせながら、二三歩膝頭で椽に近く擦り寄って来る。二人の距離が鼻の先に逼ると共に微かな花は見えた。
「あら」と女は留る。
「奇麗でしょう」
「ええ」
「知らなかったんですか」
「いいえ、ちっとも」
「あんまり小さいから気がつかない。いつ咲いて、いつ消えるか分らない」
「やっぱり桃や桜の方が奇麗でいいのね」
甲野さんは返事をせずに、ただ口のうちで
「憐れな花だ」と云った。糸子は黙っている。
「昨夜の女のような花だ」と甲野さんは重ねた。
「どうして」と女は不審そうに聞く。男は長い眼を翻えしてじっと女の顔を見ていたが、やがて、
「あなたは気楽でいい」と真面目に云う。
「そうでしょうか」と真面目に答える。
賞められたのか、腐されたのか分らない。気楽か気楽でないか知らない。気楽がいいものか、わるいものか解しにくい。ただ甲野さんを信じている。信じている人が真面目に云うから、真面目にそうでしょうかと云うよりほかに道はない。
文は人の目を奪う。巧は人の目を掠める。質は人の目を明かにする。そうでしょうかを聞いた時、甲野さんは何となくありがたい心持がした。直下に人の魂を見るとき、哲学者は理解の頭を下げて、無念とも何とも思わぬ。
「いいですよ。それでいい。それで無くっちゃ駄目だ。いつまでもそれでなくっちゃ駄目だ」