糸子は美くしい歯を露わした。
「どうせこうですわ。いつまで立ったって、こうですわ」
「そうは行かない」
「だって、これが生れつきなんだから、いつまで立ったって、変りようがないわ」
「変ります。――阿爺と兄さんの傍を離れると変ります」
「どうしてでしょうか」
「離れると、もっと利口に変ります」
「私もっと利口になりたいと思ってるんですわ。利口に変れば変る方がいいんでしょう。どうかして藤尾さんのようになりたいと思うんですけれども、こんな馬鹿だものだから……」
甲野さんは世に気の毒な顔をして糸子のあどけない口元を見ている。
「藤尾がそんなに羨しいんですか」
「ええ、本当に羨ましいわ」
「糸子さん」と男は突然優しい調子になった。
「なに」と糸子は打ち解けている。
「藤尾のような女は今の世に有過ぎて困るんですよ。気をつけないと危ない」
女は依然として、肉余る瞼を二重に、愛嬌の露を大きな眸の上に滴しているのみである。危ないという気色は影さえ見えぬ。
「藤尾が一人出ると昨夕のような女を五人殺します」
鮮かな眸に滴るものはぱっと散った。表情はとっさに変る。殺すと云う言葉はさほどに怖しい。――その他の意味は無論分らぬ。
「あなたはそれで結構だ。動くと変ります。動いてはいけない」
「動くと?」
「ええ、恋をすると変ります」
女は咽喉から飛び出しそうなものを、ぐっと嚥み下した。顔は真赤になる。
「嫁に行くと変ります」
女は俯向いた。
「それで結構だ。嫁に行くのはもったいない」
可愛らしい二重瞼がつづけ様に二三度またたいた。結んだ口元をちょろちょろと雨竜の影が渡る。鷺草とも菫とも片づかぬ花は依然として春を乏しく咲いている。