電車が赤い札を卸して、ぶうと鳴って来る。入れ代って後から町内の風を鉄軌の上に追い捲くって去る。按摩が隙を見計って恐る恐る向側へ渡る。茶屋の小僧が臼を挽きながら笑う。旗振の着るヘル地の織目は、埃がいっぱい溜って、黄色にぼけている。古本屋から洋服が出て来る。鳥打帽が寄席の前に立っている。今晩の語り物が塗板に白くかいてある。空は針線だらけである。一羽の鳶も見えぬ。上の静なるだけに下はすこぶる雑駁な世界である。
「おいおい」と大きな声で後から呼ぶ。
二十四五の夫人がちょっと振り向いたまま行く。
「おい」
今度は印絆天が向いた。
呼ばれた本人は、知らぬ気に、来る人を避けて早足に行く。抜き競をして飛んで来た二輛の人力に遮ぎられて、間はますます遠くなる。宗近君は胸を出して馳け出した。寛く着た袷と羽織が、足を下すたんびに躍を踊る。
「おい」と後から手を懸ける。肩がぴたりと留まると共に、小野さんの細面が斜めに見えた。両手は塞がっている。
「おい」と手を懸けたまま肩をゆす振る。小野さんはゆす振られながら向き直った。
「誰かと思ったら……失敬」
小野さんは帽子のまま鄭寧に会釈した。両手は塞がっている。
「何を考えてるんだ。いくら呼んでも聴えない」
「そうでしたか。ちっとも気がつかなかった」
「急いでるようで、しかも地面の上を歩いていないようで、少し妙だよ」
「何が」
「君の歩行方がさ」
「二十世紀だから、ハハハハ」
「それが新式の歩行方か。何だか片足が新で片足が旧のようだ」
「実際こう云うものを提げていると歩行にくいから……」
小野さんは両手を前の方へ出して、この通りと云わぬばかりに、自分から下の方へ眼を着けて見せる。宗近君も自然と腰から下へ視線を移す。