「何だい、それは」
「こっちが紙屑籠、こっちが洋灯の台」
「そんなハイカラな形姿をして、大きな紙屑籠なんぞを提げてるから妙なんだよ」
「妙でも仕方がない、頼まれものだから」
「頼まれて妙になるのは感心だ。君に紙屑籠を提げて往来を歩くだけの義侠心があるとは思わなかった」
小野さんは黙って笑ながら御辞儀をした。
「時にどこへ行くんだね」
「これを持って……」
「それを持って帰るのかね」
「いいえ。頼まれたから買って行ってやるんです。君は?」
「僕はどっちへでも行く」
小野さんは内心少々当惑した。急いでいるようで、しかも地面の上を歩行ていないようだと、宗近君が云ったのは、まさに現下の状態によく適合った小野評である。靴に踏む大地は広くもある、堅くもある、しかし何となく踏み心地が確かでない。にもかかわらず急ぎたい。気楽な宗近君などに逢っては立話をするのさえ難義である。いっしょにあるこうと云われるとなおさら困る。
常でさえ宗近君に捕まると何となく不安である。宗近君と藤尾の関係を知るような知らぬような間に、自分と藤尾との関係は成り立ってしまった。表向人の許嫁を盗んだほどの罪は犯さぬつもりであるが、宗近君の心は聞かんでも知れている。露骨な人の立居振舞の折々にも、気のあるところはそれと推測が出来る。それを裏から壊しに掛ったとまでは行かぬにしても、事実は宗近君の望を、われ故に、永久に鎖した訳になる。人情としては気の毒である。
気の毒はこれだけで気の毒である上に、宗近君が気楽に構えて、毫も自分と藤尾の仲を苦にしていないのがなおさらの気の毒になる。逢えば隔意なく話をする。冗談を云う。笑う。男子の本領を説く。東洋の経綸を論ずる。もっとも恋の事は余り語らぬ。語らぬと云わんよりむしろ語れぬのかも知れぬ。宗近君は恐らく恋の真相を解せぬ男だろう。藤尾の夫には不足である。それにもかかわらず気の毒は依然として気の毒である。
気の毒とは自我を没した言葉である。自我を没した言葉であるからありがたい。小野さんは心のうちで宗近君に気の毒だと思っている。しかしこの気の毒のうちに大いなる己を含んでいる。悪戯をして親の前へ出るときの心持を考えて見るとわかる。気の毒だったと親のために悔ゆる了見よりは何となく物騒だと云う感じが重である。わが悪戯が、己れと掛け離れた別人の頭の上に落した迷惑はともかくも、この迷惑が反響して自分の頭ががんと鳴るのが気味が悪い。雷の嫌なものが、雷を封じた雲の峰の前へ出ると、少しく逡巡するのと一般である。ただの気の毒とはよほど趣が違う。けれども小野さんはこれを称して気の毒と云っている。小野さんは自分の感じを気の毒以下に分解するのを好まぬからであろう。