「急いで出すが好い。いつの事やらじゃせっかく忙がしがる甲斐がない」
「まあ臨時応急にやりましょう」
「時にあの恩師の令嬢はね」
「ええ」
「あの令嬢についてよっぽど面白い話があるがね」
小野さんは急にどきんとした。何の話か分らない。眼鏡の縁から、斜めに宗近君を見ると、相変らず、紙屑籠を揺って、揚々と正面を向いて歩いている。
「どんな……」と聞き返した時は何となく勢がなかった。
「どんなって、よっぽど深い因縁と見える」
「誰が」
「僕らとあの令嬢がさ」
小野さんは少し安心した。しかし何だか引っ掛っている。浅かれ深かれ宗近君と孤堂先生との関係をぷすりと切って棄てたい。しかし自然が結んだものは、いくら能才でも天才でも、どうする訳にも行かない。京の宿屋は何百軒とあるに、何で蔦屋へ泊り込んだものだろうと思う。泊らんでも済むだろうにと思う。わざわざ三条へ梶棒を卸して、わざわざ蔦屋へ泊るのはいらざる事だと思う。酔興だと思う。余計な悪戯だと思う。先方に益もないのに好んで人を苦しめる泊り方だと思う。しかしいくら、どう思っても仕方がないと思う。小野さんは返事をする元気も出なかった。
「あの令嬢がね。小野さん」
「ええ」
「あの令嬢がねじゃいけない。あの令嬢をだ。――見たよ」
「宿の二階からですか」
「二階からも見た」
もの字が少し気になる。春雨の欄に出て、連翹の花もろともに古い庭を見下された事は、とくの昔に知っている。今更引合に出されても驚ろきはしない。しかし二階からもとなると剣呑だ。そのほかにまだ見られた事があるにきまっている。不断なら進んで聞くところだが、何となく空景気を着けるような心持がして、どこでと押を強く出損なったまま、二三歩あるく。
「嵐山へ行くところも見た」
「見ただけですか」
「知らない人に話は出来ない。見ただけさ」
「話して見れば好かったのに」