宗近と云う男は学問も出来ない、勉強もしない。詩趣も解しない。あれで将来何になる気かと不思議に思う事がある。何が出来るものかと軽蔑む事もある。露骨でいやになる事もある。しかし今更のように考えて見ると、あの態度は自分にはとうてい出来ない態度である。出来ないからこちらが劣っていると結論はせん。世の中には出来もせぬが、またしたくもない事がある。箸の先で皿を廻す芸当は出来るより出来ない方が上品だと思う。宗近の言語動作は無論自分には出来にくい。しかし出来にくいから、かえって自分の名誉だと今までは心得ていた。あの男の前へ出ると何だか圧迫を受ける。不愉快である。個人の義務は相手に愉快を与えるが専一と思う。宗近は社交の第一要義にも通じておらん。あんな男はただの世の中でも成功は出来ん。外交官の試験に落第するのは当り前である。
しかしあの男の前へ出て感じる圧迫は一種妙である。露骨から来るのか、単調から来るのか、いわゆる昔風の率直から来るのか、いまだに解剖して見ようと企てた事はないがとにかく妙である。故意に自分を圧しつけようとしている景色が寸毫も先方に見えないのにこちらは何となく感じてくる。ただ会釈もなく思うままを随意に振舞っている自然のなかから、どうだと云わぬばかりに圧迫が顔を出す。自分はなんだか気が引ける。あの男に対しては済まぬ裏面の義理もあるから、それが祟って、徳義が制裁を加えるとのみ思い通して来たがそればかりではけっしてない。例えば天を憚からず地を憚からぬ山の、無頓着に聳えて、面白からぬと云わんよりは、美くしく思えぬ感じである。星から墜つる露を、蕊に受けて、可憐の弁を、折々は、風の音信と小川へ流す。自分はこんな景色でなければ楽しいとは思えぬ。要するに宗近と自分とは檜山と花圃の差で、本来から性が合わぬから妙な感じがするに違ない。
性が合わぬ人を、合わねばそれまでと澄していた事もある。気の毒だと考えた事もある。情ないと軽蔑んだ事もある。しかし今日ほど羨しく感じた事はない。高尚だから、上品だから、自分の理想に近いから、羨ましいとは夢にも思わぬ。ただあんな気分になれたらさぞよかろうと、今の苦しみに引き較べて、急に羨ましくなった。
藤尾には小夜子と自分の関係を云い切ってしまった。あるとは云い切らない。世話になった昔の人に、心細く附き添う小さき影を、逢わぬ五年を霞と隔てて、再び逢うたばかりの朦朧した間柄と云い切ってしまった。恩を着るは情の肌、師に渥きは弟子の分、そのほかには鳥と魚との関係だにないと云い切ってしまった。できるならばと辛防して来た嘘はとうとう吐いてしまった。ようやくの思で吐いた嘘は、嘘でも立てなければならぬ。嘘を実と偽わる料簡はなくとも、吐くからは嘘に対して義務がある、責任が出る。あからさまに云えば嘘に対して一生の利害が伴なって来る。もう嘘は吐けぬ。二重の嘘は神も嫌だと聞く。今日からは是非共嘘を実と通用させなければならぬ。