「ええ五年目です」
「五年目でも、十年目でも、こうして一つ所に住むようになれば結構さ。――小夜も喜んでいる」と後から継ぎ足したように一句を付け添えた。小野さんは早速の返事を忘れて、暗い部屋のなかに竦るような気がした。
「さっき御嬢さんが御出でした」と仕方がないから渡し込む。
「ああ、――なに急ぐ事でも無かったんだが、もしや暇があったらいっしょに連れて行って買物をして貰おうと思ってね」
「あいにく出掛けだったものですから」
「そうだってね。飛んだ御邪魔をしたろう。どこぞ急用でもあったのかい」
「いえ――急用でもなかったんですが」と相手は少々言い淀む。先生は追窮しない。
「はあ、そうかい。そりゃあ」と漠々たる挨拶をした。挨拶が漠々たると共に、部屋のなかも朦朧と取締がなくなって来る。今宵は月だ。月だが、まだ間がある。のに日は落ちた。床は一間を申訳のために濃い藍の砂壁に塗り立てた奥には、先生が秘蔵の義董の幅が掛かっていた。唐代の衣冠に蹣跚の履を危うく踏んで、だらしなく腕に巻きつけた長い袖を、童子の肩に凭した酔態は、この家の淋しさに似ず、春王の四月に叶う楽天家である。仰せのごとく額をかくす冠の、黒い色が著るしく目についたのは今先の事であったに、ふと見ると、纓か飾か、紋切形に左右に流す幅広の絹さえ、ぼんやりと近づく宵を迎えて、来る夜に紛れ込もうとする。先生も自分もぐずぐずすると一つ穴へはまって、影のように消えて行きそうだ。
「先生、御頼の洋灯の台を買って来ました」
「それはありがたい。どれ」
小野さんは薄暗いなかを玄関へ出て、台と屑籠を持ってくる。
「はあ――何だか暗くってよく見えない。灯火を点けてから緩くり拝見しよう」
「私が点けましょう。洋灯はどこにありますか」
「気の毒だね。もう帰って来る時分だが。じゃ椽側へ出ると右の戸袋のなかにあるから頼もう。掃除はもうしてあるはずだ」
薄暗い影が一つ立って、障子をすうと明ける。残る影はひそかに手を拱いて動かぬほどを、夜は襲って来る。六畳の座敷は淋しい人を陰気に封じ込めた。ごほんごほんと咳をせく。