母と子は洋卓を隔てて差し向う。互に無言である。欽吾はまた鉛筆を取り上げた。三つ鱗の周囲に擦れ擦れの大きさに円を描く。円と鱗の間を塗る。黒い線を一本一本叮嚀に並行させて行く。母は所在なさに、忰の図案を慇懃に眺めている。
二人の心は無論わからぬ。ただ上部だけはいかにも静である。もし手足の挙止が、内面の消息を形而下に運び来る記号となり得るならば、この二人ほどに長閑な母子は容易に見出し得まい。退屈の刻を、数十の線に劃して、行儀よく三つ鱗の外部を塗り潰す子と、尋常に手を膝の上に重ねて、一劃ごとに黒くなる円の中を、端然と打ち守る母とは、咸雍の母子である。和怡の母子である。挟さむ洋卓に、遮らるる胸と胸を対い合せて、春鎖す窓掛のうちに、世を、人を、争を、忘れたる姿である。亡き人の肖像は例に因って、壁の上から、閑静なるこの母子を照らしている。
丹念に引く線はようやく繁くなる。黒い部分はしだいに増す。残るはただ右手に当る弓形の一ヵ所となった時、がちゃりと釘舌を捩る音がして、待ち設けた藤尾の姿が入口に現われた。白い姿を春に託す。深い背景のうちに肩から上が浮いて見える。甲野さんの鉛筆は引きかけた線の半ばでぴたりと留った。同時に藤尾の顔は背景を抜け出して来る。
「炙り出しはどうして」と言いながら、母の隣まで来て、横合から腰を卸す。卸し終った時、また、
「出て?」と母に聞く。母はただ藤尾の方を意味ありげに見たのみである。甲野さんの黒い線はこの間に四本増した。
「兄さんが御前に何か御用があると御云いだから」
「そう」と云ったなり、藤尾は兄の方へ向き直った。黒い線がしきりに出来つつある。
「兄さん、何か御用」
「うん」と云った甲野さんは、ようやく顔を上げた。顔を上げたなり何とも云わない。
藤尾は再び母の方を見た。見ると共に薄笑の影が奇麗な頬にさす。兄はやっと口を切る。