「藤尾、この家と、私が父さんから受け襲いだ財産はみんな御前にやるよ」
「いつ」
「今日からやる。――その代り、母さんの世話は御前がしなければいけない」
「ありがとう」と云いながら、また母の方を見る。やはり笑っている。
「御前宗近へ行く気はないか」
「ええ」
「ない? どうしても厭か」
「厭です」
「そうか。――そんなに小野が好いのか」
藤尾は屹となる。
「それを聞いて何になさる」と椅子の上に背を伸して云う。
「何にもしない。私のためには何にもならない事だ。ただ御前のために云ってやるのだ」
「私のために?」と言葉の尻を上げて置いて、
「そう」とさも軽蔑したように落す。母は始めて口を出す。
「兄さんの考では、小野さんより一の方がよかろうと云う話なんだがね」
「兄さんは兄さん。私は私です」
「兄さんは小野さんよりも一の方が、母さんを大事にしてくれると御言いのだよ」
「兄さん」と藤尾は鋭く欽吾に向った。「あなた小野さんの性格を知っていらっしゃるか」
「知っている」と閑静に云う。
「知ってるもんですか」と立ち上がる。「小野さんは詩人です。高尚な詩人です」
「そうか」
「趣味を解した人です。愛を解した人です。温厚の君子です。――哲学者には分らない人格です。あなたには一さんは分るでしょう。しかし小野さんの価値は分りません。けっして分りません。一さんを賞める人に小野さんの価値が分る訳がありません。……」
「じゃ小野にするさ」
「無論します」
云い棄てて紫の絹は戸口の方へ揺いた。繊い手に円鈕をぐるりと回すや否や藤尾の姿は深い背景のうちに隠れた。