叙述の筆は甲野の書斎を去って、宗近の家庭に入る。同日である。また同刻である。
相変らずの唐机を控えて、宗近の父さんが鬼更紗の座蒲団の上に坐っている。襯衣を嫌った、黒八丈の襦袢の襟が崩れて、素肌に、もじゃ、もじゃと胸毛が見える。忌部焼の布袋の置物にこんなのがよくある。布袋の前に異様の煙草盆を置く。呉祥瑞の銘のある染付には山がある、柳がある、人物がいる。人物と山と同じくらいな大きさに描かれている間を、一筋の金泥が蜿蜒と縁まで這上る。形は甕のごとく、鉢が開いて、開いた頂が、がっくりと縮まると、丸い縁になる。向い合せの耳を潜る蔓には、ぎりぎりと渋を帯びた籐を巻きつけて手提の便を計る。
宗近の父さんは昨日どこの古道具屋からか、継のあるこの煙草盆を堀り出して来て、今朝から祥瑞だ、祥瑞だと騒いだ結果、灰を入れ、火を入れ、しきりに煙草を吸っている。
ところへ入口の唐紙をさらりと開けて、宗近君が例のごとく活溌に這入って来る。父は煙草盆から眼を離した。見ると忰は親譲りの背広をだぶだぶに着て、カシミヤの靴足袋だけに、大なる通をきめている。
「どこぞへ行くかね」
「行くんじゃない、今帰ったところです。――ああ暑い。今日はよっぽど暑いですね」
「家にいると、そうでもない。御前はむやみに急ぐから暑いんだ。もう少し落ちついて歩いたらどうだ」
「充分落ちついているつもりなんだが、そう見えないかな。弱るな。――やあ、とうとう煙草盆へ火を入れましたね。なるほど」
「どうだ祥瑞は」
「何だか酒甕のようですね」
「なに煙草盆さ。御前達が何だかだって笑うが、こうやって灰を入れて見るとやっぱり煙草盆らしいだろう」