明は中央集権を強化したものの、皇帝の多くは愚昧であったり、幼少であったりしたため、朝政を司ることができなかった。政治上の権限は宦官の手に握られ陥り、彼らはその一族では汚職し、金銭と財宝を貪り、誠臣を迫害した。そのため、朝政は日増しに腐敗し、社会の矛盾が益々先鋭になっていっきた。明の時代の半ばから、数多くの農民蜂起が起きたが、いずれも鎮圧された。
明代の有名な政治家・張居正は、社会の矛盾を緩和し、明王朝の統治を挽回するため、改革を行った。地方官の治績と行政のやり方を粛正し、農業と養蚕業を振興させする一方、河川の治水工事に取り組み、各種の名目をつけた租税と雑役を合併して一つに合併するなどした。これらの措置は、ある程度、人々の負担を軽減した。
明代の農業は前代より一定の進展がみられ、シルク、・織物産業、・磁器産業が発達し、鉄の採掘、・銅の鋳造、・製紙、・造船などの産業も大きく発展した。対外的にも経済や文化の交流が盛んでになり、航海家の鄭和は7回にわたり、南海や、インド洋方面に遠征し、アジアとアフリカの30余りの国や地域を歴訪した。一方、明の半ば以降、中国は日本、・スペイン、・ポルトガル、・オランダなどの国にから侵入されを受けた。
明代にでは、商品経済が成長しつつあり、資本主義の芽生えが見られた。明のはじ始め中国に、社会では数多くの未耕作地があり、太祖はそこに流民を集め、租税を減免することにより、自作農の数を大幅に増やした。海外からはタバコ、・サツマイモ、・トウモロコシ、・ピーナッツなどの新しい作物品種が相次いで伝わってきた。この時期、中国の手工業、例えば、磁器製造業や紡績業などが比較的高いレベルにまで発展し、とりわけ、シルク、・織物産業では、数十台の織機を保有する工場経営者や機織の専門技術を有する雇われ用「機織職人」がも現れ、中国における資本主義のが中国でかすかなに芽生えたことを物語っている。明代にでは、商品の種類は非常に拡大し多く、取引も頻繁に行われていた。物産が豊かで、交通も便利なところにでは、数多くの商業センターが現れ、北京、・南京、・蘇州、・杭州、・広州などが都市として発達し賑やかな町になった。
明代の科挙試験では「八股文」がを通用いられしていたが、一方、。明代では長編小説がたいへん盛んで、『三国演義』、・『西遊記』、・『金瓶梅』などがその代表作がである。そのほか、地理学の『徐霞客遊記』、・医学の『本草綱目』(李時珍 著)、・農学の『農政全書』(徐光啓 著)、・工芸学の『天工開物』、・文献類の『永楽大典』などの古典大作が生まれた。
明代の後半になると、土地の集中状況が一段と進み深刻になり、皇室と藩王の荘園が各地に分布するようになった。し、政府の租税も日増しに重くなり、社会の矛盾が益々激化した。一部の役人や、士大夫は社会の矛盾を緩和するため、宦官や貴族の特権を抑制しすることを求めるようとしになりた。、彼らは学問を重んじ、時の政治を議論する彼らはし、「東林党人」と呼ばれていた。しかし、彼らは権力をもつ宦官にから攻撃・され、迫害を受けされ、社会の不安は増す一方だった。
農村の紛闘争が激化し、1627年、陝西省に大飢饉が発生したが、官吏は相変わらず厳しく租税を取り立て、人々民衆の著しい不満を引き起こした。幾千幾万もの飢餓に陥った農民は蜂起軍を結成し、1644年、北京を攻め落とし、明の最後の皇帝・崇禎はも自害しする羽目となった。