楊貴妃はふくよかで、音曲に秀でており、踊りが上手でとりわけ取り入ることが得意だそうである。唐玄宗が自ら作曲した「霓裳羽衣曲」に一度目を通しただけの楊貴妃はすぐ暗記でき、歌に乗せながら踊ることができた。
唐玄宗の寵愛を一身に受けた楊貴妃の一族も出世した。楊貴妃の3人の姉は国夫人となり、楊一門の兄弟は高位に就いた。兄楊国忠は右宰相の位にまで登用され、目を見張るばかりの権勢を誇った。唐玄宗が酒色にふけるようになり、政治は腐敗して各政治勢力の矛盾が日々激化して、「安史の乱」を招いた。唐玄宗は楊貴妃と共に蜀へ逃げる途中、馬嵬の地に着くや、「この反乱の原因は楊一族にこそあり」と近衛軍は楊貴妃を含む全ての一族を始末するように要求し、動こうとしない。どうすることも出来ないまま唐玄宗は宦官高力士に楊貴妃の縊死を命じた。結局、楊貴妃は馬嵬の仏堂前の梨の木の下で縊死させられ、38歳の生涯を終えた。
楊貴妃の死に関する説は色々あるが、楊貴妃の女官が代わりに縊死させられ、楊貴妃が密かに都を逃れ船で大陸を脱出し、日本にたどり着いたという説がある。今でも、日本には楊貴妃の墓が二ヶ所ある。
1963年、ある日本人の女性がテレビで視聴者に系譜を見せ、自分が楊貴妃の子孫だと自称した。
楊貴妃が日本の山口県大津郡油谷町久津にたどり着いたという説がある。唐玄宗は「安史の乱」を治めた後、方士(神仙術を行う人)に楊貴妃を探しに派遣した。方士が日本の久津で楊貴妃と会い、玄宗が贈呈した仏像二つを渡したが、楊貴妃が玉簪を贈り返した。楊貴妃は日本の久津で亡くなり、現在も久津には楊貴妃のお墓があり、二つの仏像も保存されている。