1911年10月10日、武昌蜂起が起きた。孫中山はアメリカでこのニュースを聞き直ちに欧米各国で外交活動を展開して各国の支持を求めるなど努力した。同年12月25日に上海に帰国した。12月29日、南京で開かれた17省の代表会議で、孫中山は中華民国臨時大総統に推挙された。
1914年7月、孫中山は東京で中華革命党を創設し、総理に推挙された。
1915年10月25日、孫中山は宋慶齢と東京で結婚した。1917年9月1日、中華民国軍政府大元帥に選ばれた。1919年10月、中華革命党を中国国民党に改組し、1920年10月、陳炯明に対し広東軍を率いて広州を攻め取ることを求めた。11月、孫中山は広州に戻り、再び護法軍政府を樹立した。1921年5月、孫中山は広州で臨時大総統に就任し、正式に政府を樹立した。
1922年6月、陳炯明が反乱を起こし、孫中山は広州を離れて再び上海へ赴いた。その後、孫中山は中国共産党とソ連の援助を受け、「聯俄・聯共・扶助農工」(ソ連・共産党と提携し,労農を扶助する)の三大政策を打ち出した。1923年初め、陳炯明を駆逐した後、孫中山は広州で再び大元帥府を建て、「孫逸仙博士代表団」をソ連訪問に派遣し、ソ連の政治と軍事面の顧問を広州に招いて中国の革命を支援してもらった。1924年1月、広州で中国国民党第1回全国代表大会を開き、党の政綱、党規約を可決し、三民主義を改めて解釈した。同時に黄埔軍官学校を創設し、革命の武装幹部を育成した。
1925年3月12日、孫中山は北京で逝去した。1929年6月1日、その生前の願いによって陵墓は南京・紫金山の中山陵に移された。