彼らは北京市の繁華街王府井と、桜で有名な玉淵潭公園で「フリーハグ」を行った。「友」と大きく印刷されたTシャツ姿で、「中日友好free hug」と書いてあったプラカードを手にして、道行く人たちにハグを求めた。それから数日後、彼らを含めた百人の中日の学生たちは、中日友好を訴える合唱「歌声~ここから僕らははじまる~」を披露した。
このフリーハグと合唱のことは、複数のメディアに取り上げられ、多くの人たちから感動の声が寄せられた。
実は、私は陰でこの活動を支える24人のメンバーの一人だった。ことのはじまりは、偶然代表の渡辺航平さんと知り合ったことだった。
北京大学の校内がイチョウの黄色に染まった2013年11月、私は学部の雑誌の編集長として、取材で北京大学に行った。中国のハンセン病村でボランティアをしたという日本人留学生の話を聞くためだった。そこで一緒に現れたのが、華奢な体をした明るい青年--渡辺航平さんだった。彼は上海でのフリーハグの映像をみせてくれた。映像の中で、中日友好を願い、ハグする人々の明るい笑顔は2013年9月の上海の街を照らしていた。感動よりも複雑な感情が胸の中を流れ、そんな彼を見守りたいと思い、私は密着取材を決めた。
隔週のミーティングに参加しているうちに、手伝いたいという思いが芽生えてきて、いつの間にか運営するメンバーの一人になっていた。メンバーは徐々に増えてきて、漠然とした合唱とハグの企画も、だんだん骨肉のあるものとなってきた。みんなの努力で、歌と「友」Tシャツは完成され、合唱のメンバーもいつのまにか150人近く募った。
私もその中で自分の全力を尽くしていた。会議や反省会で、必ず日本人の留学生とたくさん話し合いをした。けれど、やはりまだ気まずさや恥ずかしさが残っていた。2ヶ月経っても、みんなとの距離が縮まらないという無力感に陥った。まだお互い尊敬語を使い、任務を全うしようとする部分が大きく、話し合うこと自体が仕事のようにも感じた。日本人同士がタメ口でおしゃべりしているところを見ると、正直羨ましかった。中国人が少ないせいか、自分はこの団体の中に入ってはいるが、ずっと溶け込めずに、異質的な存在のように思えた。
こうして、何も解決しないまま、時間だけが経っていった。
活動が進むにつれて、自然にみんなと食事したり、飲みに行ったりする機会が増えてきた。そこで初めてみんなと活動以外のことを話した。将来のことや、お互いの国について思ったことから、恋愛相談まで、お酒を飲みながら、いろいろ腹を割って話した。その場では、中国人や日本人などまるで関係なく、みんな今頃の若者であった。気づいたら、私たちを隔てる何かが徐々になくなった気がした。自分の弱みを見せてもいいような仲になったと感じた。悩み相談に乗ったり、乗ってもらったりするようにもなった。
みんなと友達になるのは意外と簡単なことだった。
ふと、ハグとはこういうことではないかと思った。手を伸ばし、ハグするということは、自分の弱みを相手に見せながら、相手を受け入れることである。単純な行為に見えて、「恥ずかしがり屋」の中華文化圏の人たちにとっては、さほど簡単なことではないだろう。培ってきた高い信頼がないと、とてもできないことなのである。
けれど、中国と日本は、何千年にわたる交流の歴史がある。それ相応の信頼も根っこにはあるはず。意地を張らずに、組んでいた腕を緩み、お互い一歩譲りあって、両手を広げハグしたら、笑って兄弟のように肩を並べて前に歩んで行けるのではないかと思った。
活動が終わってしばらくたってからの2014年4月、私はもう一度北京大学に足を運んだ。校内では、色とりどりの花が咲き誇っていた。この活動を通じてできた留学生の友達と食事をし、吹き抜ける春の風を感じながら、6人で三組に分けて、自転車の二人乗りで校内を走りまわった。満開の桃の花は、風に揺られ、さらさらと笑っていた。
月が満ちてまたかけ、季節は秋から春に変わった。この活動も終わり、参加した学生たちはまた平穏な日常生活に戻った。けれど中日間の交流はもちろんこれで止まったわけではない。長い歴史の中で続いてきた両国間の交流は、流れる川のようである。季節によって、水の量は変わるけれど、決してとどまることを知らない。
しかし、私たちはここから始まる。相手に弱みを見せ、受け入れることから始まる。
唐家璇元国務委員が訪日し、福田康夫元首相が訪中した。中日関係の改善の兆しが徐々に見えてくるだろう。これから、フリーハグといった目立った方法で中日友好を訴えるというのはなくなるだろう。
私たちは、地道な交流の中に飛び込み、中日友好のために、力を尽くしていくことをここで誓う。