共感者とは、人の行動や思想などに深く同感しながら、お互いの違いを尊重する人のことをいう。日中交流の共感者になる前提条件は、偏見を捨て去り、お互いに活発な意見交換を行った上で、より深い理解を求めるということだ。
2014年の2月、ボランティアとして、日本語ダイジェスト版『知日―なぜ中国人は、日本がすきなのか!―』の出版記念会に参加し、作家の毛丹青先生の談話を聞いた。その話では、「共感者の代表たる者は『知』の構築を日中両国の若者同士で是非ともやってほしい。政治は文化のひとつにすぎない。日中間の政治関係がよくないからといって、文化の交流までしないというのは間違っている」と強調されている。恐らく書籍出版の狙いは、外からの目線で、こびることもなく、けなすこともなく、等身大の感覚で日本の姿を見ている、そういうことを日本の国民に伝えたいだろう。また、政治問題があっても、文化全体を否定するべきではない意味も含まれているだろう。国と国との交流は個人間の交流に始まるものである以上、個人と個人との交流は相手を一方的に否定するのではなく、互いに共感と理解を深めることに意義が生まれるものだと思う。
時代に恵まれているし、インターネットが普及しているので、若者はいつでも最新情報を入手でき、それを糧に交流を深めることができる。こうした若い世代間での知識の伝播スピードは決して軽視できない。言葉が通じなくても、地域が異なっていても、交流が簡単にできる。昔、私にとっての「日本」はただの抽象名詞だった。「一衣帯水」や「アニメ王国」などといったイメージしか浮かばなかったのだ。初めて日本の若者と出会ったのは高校一年生の時で、ある日中高校交流のプロジェクトがきっかけだった。「安部香央里」という女の子に出会ったが、私は日本語が分からなく、彼女も中国語ができなかったため、交流に支障があるかのように見えた。しかし、同じ年齢とアニメ好きなどの共通点があって、言葉に頼らなくても、一緒に笑い、一緒に悲しみ、そして一緒に喜びを分かち合え、心が通じ合っていた。今から考えれば、これも若者の一種の共感の力だと思える。
情報によって相手国の文化に対して関心を持つことが極めて大きな意味を持つ。顔と顔を合わせた交流のみならず、各種のニューメディアを使った交流も日増しにその重要さを表している。「塵も積もれば山となる」。次世代を担う青年交流は、様々な民間交流活動をより有機的に結びつけることを目指すことができる。日本学生支援機構(JASSO)の調査によると、現在日本在住の外国人留学生の中で、中国人留学生が全体の60%を占めているという。青年学者は若く、エネルギーに満ち溢れており、さまざまな活動を通して、日中民間交流の第一線で活躍している。こうした特徴を生かし、今後の民間交流では、共感者の力を利用した交流活動の有効利用についても積極的に行うべきだ。中国で日本の文化や生活に強い興味をもつ若者が増えているが、日本でも中国文化を知り尽くしたいような共感のできる若者が出てほしいという望みは、『知日』の著者が発したいメッセージではないか。
日中両国の共感者が増えて初めて、両国の友好関係が頑丈に築かれるものだ。両国の国交がまだ回復していない時代、当時の民間交流は日中友好の先駆けとなり、両国関係打開のために道を開いた。近年の両国関係が一層悪くなったように見えるが、決して打開策がないわけではない。理由や経緯などはともあれ、両国の共感者の人数が次第に多くなってきていることは事実であり、日中青年友好交流会やfree birdなどの若者主導の交流団体も「平和の橋」と呼ばれるほど大変な活躍ぶりを見せている。「一人では決して見ることのできない景色がある。では、一人ではないのなら、見えるかもしれない」という信念は共感者たちを支えている。共感者たちは両国の明るい未来を次から次へと届けている。
日本の大人気な林修さんの言葉を借りて私の気持ちを表したい。
「共感者、いつやるか。今でしょう!」