相手は日本のある機械製作所の専門家で、機械のメンテナンスで中国の工場へ来たということだ。専門家ときたら、偉くて厳しそうな顔という先入観にとらわれていたが、初対面では、いつも微笑みで元気なおじさんの印象だった。簡単な挨拶を交して、音部という名前が分かった。
それからの15日間は充実した毎日だった。日課のような打ち合わせ、現場状況の確認、機械の分解と組み立てなどで音部さんに付いて、工場を歩き回っていた。
この工場へ何度も来て、音部さんはここの古い友人と言えるくらいだ。休憩の時、みんな操作台を囲んで、冗談まじり話していた。その場、私はメッセンジャーに変身し、それぞれの話しを相手に伝えた。日本の出来事から医療保険制度まで工場の人が興味津津で、彼らの世間話を聞いて、その思いがけぬ盛り上がった雰囲気に心を暖められ、この仕事なりの楽しさを見つけてきた。
中国の変化が音部さんの関心事だ。タクシーで工場に向かっている途中での、「中国人は交通マナーがよくなった」だっだり、「最近中国の大気汚染が深刻だな」だったりした音部さんの見たままの真実を込めた独り言は、彼との距離を縮めてくれた。
ある休みの日、音部さんは「行きつけの料理屋に行こう」と提案した。そこで暇を潰しながら、夕食を済ませようとして、二人で行った。私の協力なしでさっさと料理を注文しておいた音部さんを見て、私は呆れてしまった。
「音部さんは中国の食文化に詳しいですね」と、私は感心した。
「まあ、何度も来ただけで」と、音部さんは満足した顔を見せてくれた。
「慣れていますか、中華料理には」
「郷に入っては郷の食い物に慣れろ」と音部さんは自家用の造語で返事して、また、
「劉くんは日本に行ったら、きっと中国の一料理を譲って、日本のに慣れるだろう」と。
おそらく音部さんがその場の直感から何心なく発したに過ぎないこの言葉はいかにもその時の私の実感を突いた。
それにつけて思い合わされるのは、考えると頭が痛くなりそうな最近の中日関係だった。中国と日本は正にこういう一歩を譲り合う関係にあるのではないかという考えがぴんと来た。料理の一方を譲って、他方に慣れるように、この一歩を譲り合う関係はしょせん両方の相互交流というものである。相互交流にくれ手もあれば、もらい手もあり、一方通行になってはいけない。交流が不足のため、多くの日本人は両国関係に無関心で、中日関係をよく知らぬせいで、唆され無謀で過激な行動を取った中国人もいる。交流には妨げさえあれば、否応なしにその誤解のギャップが大きくなっていく。これは政治問題だけでなく、国民にも関わる。それに、国民はどう思うかがより重要である。しかし、誰もかも交流したがる、交流せねばならぬという風潮は異常で、強い必然性を持つ人だけは交流すればよいという冷めた見方もある。そうでありはしない。交流は国や実在の機関には止まらず、民間、つまり民と民との間にまで及ぶべきだ。音部さんも工場の人もいい例だ。音部さんは自分の見聞きで真の中国を感じ取り、工場の人は音部さんを通じて日本のことをよく知っているたげに、これほど拘りなく楽しく仕事ができただろう。交流の架け橋みたいな存在の私はあえて言えばそれは両国関係のあり方だと思う。
「ご飯は冷めるよ」と音部さんの一声に、私は自問自答から戻された。夕食をしていたのだ。私がすばやくご飯をたっぷり口に入れて、突然、音部さんは喋り出した。
「工場の人は親切だな、昔のように。付き合いがあったから」。
少し間を取って、また
「国も同じだ。付き合いがあり続けてほしい。僕と劉くんと工場の人のように」と私の心底の声が聞こえたように言いのけた。
心いっぱいの真実に打たれずにいられない言葉だった。それを反芻しながら、私は思わず窓越しに外を眺めた。
街路樹の桃の木の枝に蕾がいっぱい付いている。街頭の黄色い光に淡いピンクの花がぽつりぽつりと咲いているのが見えた。
「先日うちに電話して、桜前線がうちまで進んだところで、今は町一面桜色のはずだ」と音部さんは言った。
「あと一週間ぐらい、ここの木も満開でしょう。桜のように」と私は清々しい気持ちで答えた。
「楽しみにしてるな」と音部さんは何かを考えている様子で呟いた。
そうね、楽しみにしているよ。花が咲くのを。両国関係における春の訪れを告げる桃の花と桜の花の満開を。五枚の花びらが一つの花に、そして、数千、数万の花が一本の木を成すように、我々一人一人の小さな交流の種が大きく両国関係を築くのを。