午後十一時半を回った。
大部屋は異様な静けさに包まれていた。
誰もがたった一本の電話を待っている。悠木はその人の輪の中心にいた。
分針の動きは速かった。
まもなく日付が変わる。不安の入り混じった多くの目が壁の時計に向いた時、悠木の眼前の電話が鳴った。
張り詰めた声が耳に響いた。
〈玉置です〉
「入ったのか」
〈ええ。勝手口から潜り込みました〉
「事故調の連中は?」
〈まだ会議をしてます〉
「わかった。お前は裏山に戻れ。十五分様子を窺って、またそこから電話を寄越せ」
〈はい〉
旅館「たの」と公衆電話の距離は往復十五分。次の連絡は零時半になる。無論、その前に佐山が「たの」を飛び出すようなことがあれば玉置からの連絡は不要になる。
「佐山が旅館に入った」
岸に言った一言は、静寂を貫いて整理部のシマにまで達した。小さなどよめきが起こり、亀嶋が胸の前でガッツポーズをつくって見せた。
ドアが開き、吉井が駆け込んできた。二階の制作局にいたのだ。顔が上気している。筒状に丸めた仮刷りを大切そうに握っている。
第二版の仮刷りがデスクの上で開かれた。
通常なら十枚近く刷るが、今日は三枚だけだ。悠木に一枚。局幹部のいる局長室に一枚。吉井の手持ちが一枚。いずれも右上に「持ち禁」の大きな印が押してある。局外への持ち出し禁止を意味している。
両脇から岸と田沢が頭を寄せてきた。
≪事故原因 「隔壁」破裂が有力≫
破格な大きさの見出しは、目を圧するほどの迫力があった。
本文を読む。改めて一行一行チェックしていく。
額に、じわりと脂汗が滲むのを悠木は感じた。
「すげえことになるぞ」
岸が呟いた。
明朝、この紙面が白日のもとに晒される。日本中のすべての新聞が後追い記事を書く。通信社が世界中に配信する。あまたの国の言語に翻訳され、あまたの人種の人間が、北関の発した記事を読む──。
悠木は吉井を呼んだ。
「OKだ」
「はい」
吉井はぎこちない手で仮刷りを丸め、ドアに向かって走った。
振動が尻に伝わってきた。≪農二圧勝≫のフィルムを巻きつけた輪転機が回り始めたのだ。
電話が鳴った。悠木は壁の時計を見た。零時半ジャスト。玉置だ。
「どうだ?」
〈佐山さんの姿がチラッと見えました〉
「どこだ?」
〈トイレにいます。広間の近くの〉
「連中は?」
〈まだです。喋ってます〉
「わかった。お前は──」
言い掛けた時だった。
蹴破られた。そんな音がして、大部屋のドアが勢いよく開いた。
伊東販売局長が入ってきた。数人の若い部下を従えていた。
「どういうつもりだ、編集は!」
伊東が怒鳴った。歯茎を剥き出しにして部屋を見渡している。背中向きの悠木にはまだ気づいていない。
「今日も輪転の始動が十五分遅れた。なんでこうなった? ちゃんと説明しろ!」
しくじった。悠木は眉間に皺を寄せた。
昼間会った時、今夜も降版が遅くなると捨て台詞を残した。だから伊東は警戒し、こんな時間まで社に残って編集局の様子を窺っていたのだ。
「それに鍵だ! トラックの鍵をどこにやった!」
悠木は息を殺していた。
鍵はポケットの中だ。藤岡・多野コースへ向かう「5号車」の鍵──。
局長室から追村と等々力が飛び出してきた。後から粕谷の不安げな顔も続いた。
「出てけ!」
吠えたのは追村だった。火を噴きそうな顔つきだった。
「ここは神聖な場所だ! 穀潰しの販売が来るところじゃねえ!」
「なんだと貴様! 社長の太鼓持ちがでけえ口叩くな!」
「だとう? 飯倉の犬め!」
「てめえらは泥棒猫だ! 鍵を出せ! わかってるんだ、昔も盗まれたからなあ!」
ドアの付近で罵声が飛び交った。今にも殴り合いになりそうだ。
「悠木、下だ!」
岸が叫んだ。二階の制作局に「日航全権デスク」を移せ──。
得策だ。悠木は頷き、席を立った。手には受話器を握っていた。耳に当てる。まだ繋がっていた。
「玉置──以後、局番は同じの3301番に掛けろ」
電話を切り、振り向いた。吸い込まれるように伊東と視線が合った。
「悠木ィ!」
怒声がフロア中に響いた。
「貴様だな? おい、鍵を返せ!」
悠木は応じず、ドアに向け歩き出した。岸と田沢が両側をガードするような恰好だ。向こうも動いた。若い局員二人が行く手に立ちふさがった。険しい顔だ。
「どけ!」
悠木は歩を進めながら二人を交互に睨み付けた。二人は怯《ひる》んだ。
「止めろ!」
伊東が命じ、部下たちは破れかぶれといった感じで輪を狭めてきた。
岸と田沢が前方に進み出た。露払いをする気だ。整理部の若手が加勢した。
揉み合いになった。こちらが多勢だ。悠木の前には、どうにか歩けるだけの隙間ができていた。かわし、すり抜け、ドアを出た。その時だった。
「パンパンの伜《せがれ》め!」
足が止まった。振り向いた先に、伊東の下卑《げび》た笑みがあった。
視界が暗くなった。
納屋の中で震える小さな膝小僧が見えた。
拳を握って走り出していた。次の瞬間、背後から肩を掴まれ、胸や腰には何本もの腕が巻きついた。岸の腕もあった。
「悠木、喧嘩は後だ!」
「放せ!」
もがいたが、強い力で背後に体を持っていかれた。そのまま編集の一団は廊下を走った。真ん中の悠木は揉みくちゃにされた。足が宙を掻いているような状態だった。販売の連中が追ってくる。階段を下った。騒ぎを聞きつけた制作局の人間が二階の廊下に出てきていた。
「販売を止めてくれ!」
その声に、制作の若手がドアの周囲を固めた。悠木らが雪崩れ込んだ直後、勢いよくドアが閉められた。
「入れるな!」
「鍵を掛けろ!」
「立ち禁の札をさげろ!」
悠木は周りの手を振りほどき、近くの椅子にどっかりと腰を下ろした。
息が上がっていた。
体中の汗腺から汗が噴き出していた。喉がカラカラだ。顔が熱い。もう風邪なのか何なのかわからなかった。
ドアの外で怒号が乱れ飛んでいる。
悠木は椅子の背もたれに体を預け、制作局の部屋を見回した。編集と制作の若手が大勢いる。入ってきてみろ、とっちめてやる。どの顔もそんなふうだ。ここは安全だ。誰もが味方だ……。
なのに孤独を感じた。
醒めた思いにとらわれた。この場の一体感を薄気味悪く感じた。
親兄弟のような……。
血管や臓物すら共有しているかのような……。
「悠木──」
岸が手招きをしている。制作の作業台の前だ。吉井もいる。第二版のフィルムが出来上がったのだろう。
悠木は腰を上げた。時計を見た。零時五十五分。あと三十分の勝負だ。
歩き出して、ズボンに違和感を覚えた。
鍵を落とさなかったか……。
悠木は慌ててポケットを探った。指先が冷たい金属に触れた。同時に、別の指がざらっとした革の感触を脳に伝えた。
下りるために登るんさ──。
突如、安西の声が頭蓋に響いた。
閃光を見た。
もしも今、静けさを与えられたならば。
思考するに十分な時間を与えられたならば。
悠木は、安西が残した言葉の意味を解き明かせそうな気がした。