今日は お山が 見えないね
雲は ないのに 見えないね
雨でも ないのに 見えないね
ねえ ねえ どうして おばあちゃん
どうして お山が 見えないの
それはね 坊や
お山が 弔いしてるから
ねえ ねえ どうして おばあちゃん
どうして お山は 弔いするの
それはね 坊や
ずっと ずっと 昔から
死人《しびと》の 弔いしてたから
ずっと ずっと 昔から
お山は あそこに あったから
悠木は上半身を起こしていた。
宿直室のベッド……。
枕元の電話が鳴っていた。
悠木は体を反らせて受話器を取った。習慣でそうしただけで、頭はまったく動いていなかった。
〈佐山です〉
県警キャップの──思った瞬間、脳内のすべてのランプが点灯した。
「ああ、ゆうべはご苦労だったな。いま何時だ?」
〈六時少し前です〉
旅館「たの」に朝駆けして、再度、調査官にぶつかるよう命じてあった。だが、いくら何でも時間が早すぎる。
「何かあったのか」
〈毎日が書いてます〉
「何を……?」
短い間があった。
〈隔壁です──朝刊で事故原因だと打ってます〉
悠木は目脂《めやに》の張りついた目を瞬かせた。
〈もしもし〉
「………」
〈もしもし、悠さん?〉
「………」
〈俺は、悠さんの判断は間違ってなかったと思います。ギャンブルで打てるネタではなかった。そう思います〉
言葉は返さず、受話器を置いた。
悠木はすぐにベッドを抜け出した。ズボンをはき、シャツのボタンを指で辿りながら宿直室を出た。階段を下り、編集局の大部屋に入った。不寝番の森脇が慌てて立ち上がって頭を下げた。県警担当の一年生。一睡もしていないので顔が腫れぼったい。
「毎日は来てるか」
「あ、すみません、いま取ってきます」
森脇は風を巻いて大部屋を出ていった。この早い時間、本社の建物内は無人に近いから、森脇が階段を駆け下りる音と、駆け上がる音のすべてが悠木の耳に届いていた。
軽快な足音が近づき、勢いよくドアが開いた。新聞の束を抱えた森脇がダッシュで駆け寄ってきた。
「どうぞ」
悠木は手渡された毎日新聞をデスクの上に置いた。
捲る必要はなかった。一面トップだ。
≪「隔壁」破裂が有力≫──。
奇しくも、北関が昨夜作った第二版と同じ見出しだった。
記事の内容も似通っていた。機体後部の圧力隔壁が破裂し、客室内の与圧空気が噴き上げて尾翼を空中分解させたと推論している。そして、隔壁は事故機が七年前に大阪空港で起こした「しりもち事故」の際に傷み、劣化していたのではないか──。
やられた。
題字の辺りに置いていた手が微かに震えていた。ほとんど無意識に、悠木は紙面を鷲掴みにして腕を振り上げた。
新聞が、巨大な蛾のごとく宙を舞った。
少し離れた机で森脇が目を見開いていた。
悠木はすとんと椅子に腰を落とした。そのまま動けなかった。視界は光を失っていた。電話を待っていた。罵声と怒声を待っていると言ったほうが当たっていた。最初に寄越すのは誰か。粕谷局長。追村次長。それとも等々力部長か。
三十分……一時間……。七時を回っても誰からも電話はなかった。
武士の情けか。それともそうか、「もらい事故」だから沈黙を決め込んだのか。日航機事故のスクープなど端《はな》から誰も期待していなかったということか。
悠木は大部屋を出て、そのまま本社を後にした。県道を横切ろうとしてトラックにクラクションを鳴らされた。駐車場で車に乗り込んだ。高崎方面に向かった。自宅へ? わからなかった。悠木はただ、北関と距離を置きたかった。
悔いていた。
自分なりに決断して「隔壁」を葬った。信ずるところがあってスクープの誘惑をねじ伏せた。
なのに悔いている。惜しいことをしたと臍《ほぞ》を噛んでいる。それがたまらなく情けなかった。
佐山の声が耳にあった。
「悠さん」と呼んでくれた。悠さんの判断は間違ってなかったと思います──。
何も言わずに電話を切った。自分だけがかわいくて、だから佐山の言葉に応じられなかった。
ありがとう。
そのひと言が言えたなら、この先ずっと誇れる自分でいられた。同じ場面を与えられることは二度とない。その一瞬一瞬に、人の生きざまは決まるのだ。
悠木は掌底《たなそこ》でハンドルを叩いた。二度、三度、四度……。アクセルを踏み込んだ。メーターの針はみるみる上がっていった。
家には淳が一人いた。
パジャマのまま居間でテレビゲームをやっていた。
「お母さんは?」
「草取り」
淳は振り向かずに答えた。
「由香は?」
「草取り」
公園の草取りだ。団地内で持ち回りでやっている。
悠木はソファに腰を沈めた。しばらくの間、肩幅の広くなった背中をぼんやりと見ていた。
いつものように淳は苛立ち始めた。膝を揺らし、肩を揺らせた。後ろにいるな。あっちに行け。そう言っている。
今日は、さほど辛くなかった。
「淳──」
「………」
「なあ、淳」
「あ」
淳は振り向かない。肩の揺れが激しくなった。
「お前、やりたいこととかあるのか」
「………」
「将来だよ。何かあるのか」
「ない」
「何もか」
「う」
「俺もそうだったな。お前ぐらいの頃は」
「う」
「腹一杯食いたいとか、そういうことは考えたけどな」
「う」
いつか淳は爆発する。そんな予感がする。
悠木に掴み掛かってくるのか。それとも金属バットでも振るうのか。
甘んじて打たれるだろう。淳に与えた苦しみの量と同じだけ悠木が血を流す。それ以外に、二人が親子になれるどんな方法があるというのか。
「少し寝るかな」
独り言のように言って、悠木は腰を上げた。
途端、淳の揺れが小さくなった。
悠木は居間を横切って廊下に出た。階段を上がる。
いつもそうして逃げてきた。次はどうにかしよう。もっと突っ込んだ話をしてみよう。一つ屋根の下にいる親子なのだ、それこそ時間は有り余るほどある──。
悠木は階段の踊り場で足を止めた。
本当だろうか。悠木と淳の間に、真実、有り余る時間など存在するのだろうか。
一瞬一瞬に……。
悠木は階段を下りた。廊下を戻り、居間に入った。
足音に気づいて淳が振り向いた。おそらく弓子だと勘違いした。まだパジャマ姿なので何か言われる。淳の顔には、今にも舌を出しそうな悪戯っぽい笑みがあった。その十三歳の素顔は、はにかんだ燐太郎の顔を思い起こさせた。
淳はもうテレビに顔を戻していた。ばつの悪さを押し隠している。
込み上げる思いがあった。
悠木は言った。
「淳、今度一緒に山に登ってみないか」