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黒パン俘虜記7-3

时间: 2018-10-26    进入日语论坛
核心提示:     3 たしかにぼくらはここへ入ってきた人々の中では運がよかった方らしい。 年末までに何とか一人でも多くの日本人を
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 たしかにぼくらはここへ入ってきた人々の中では運がよかった方らしい。
 年末までに何とか一人でも多くの日本人を凍った大陸から連れて帰ろうと日本政府が最大限の努力で輸送船を動員してくれていた時期にあたっていた。第三収容所に何日分か溜っていた俘虜たちが、ごそっと減ったので、自然に我々の進級が早くなり、選別の基準も弛《ゆる》くなっていたのである。
 ぼくらは五列で歩きながら第一収容所から第二収容所へ向った。
 左側の暗い海には、今朝より船の数が増え、四艘分の、青灯と赤灯がまたたいていた。
 第一と第二との距離は二キロ、大声で三番まで唱う赤旗の歌の八回分で着いた。希望はだんだん現実のものとなった。収容所の中の造りや大きさは第一と殆ど変りはない。
 第二収容所にも聯盟員が待っていた。第一の者より、いずれも二、三年、年長で獰猛《どうもう》な顔をして、迎える言葉は汚く、軍隊生活の古兵《ベテラン》らしいドスが利いていたが、こちらの方も馴れていて、脅しや罵声には、そうびくつかなくなっていた。
 その夜は、それぞれが幾つかの天幕に分れて寝場所が決められ、同じような黒パンと、キャベツの漬物の配給があった。
 夕食後三十分の休憩があっただけで、また作られた舞台の前に集まり砂地に坐らされて、十二時すぎまで、例の言葉の意味がよく分らぬ演説をきかされた。
 聞く要領、叫ぶ要領を覚えてしまったので、長い時間の民主教育もそう辛くなかった。
 翌朝早くから始まった人民裁判では、主に下士官が対象になった。すべてが規則通りに動き、お互いの分限はまるで官僚組織のように、きちんと守られていた。
 ここでの告発は、先日の調査用紙が有効に利用された。書類に記載された何人もの下士官が舞台へ上げられ、厳重に追及された。追及が否定されると、査問官はもう一度書類をたしかめ、告発者を席から立たせて、その理由をみなの前で述べさせる。ところが大半がここで腰くだけになってしまった。後での仕返しも怖かったし、ここまできてどうしてもシベリヤへ戻したいというほどの憎悪は答弁者から消えている。
 相変らず周囲を取り囲む査問員、指導員の追及はきびしかったが、肝腎な一般人民の方の熱意がちっとも盛り上らなかった。
 そしてどういうわけか、本来は下士官の部で裁かれる人間として、第一収容所の査問を省かれた吉村隊長、本名池田曹長のことは、ここでは只の一言も出なかった。第一でもう処理ずみとなっているらしかった。
 誰もが自分一人、家へ帰ることだけが大事で、もうよけいなことをいって、面倒をひき起したくない。ここまで来たら、点数が足りなくても戻されることはないと分ったし、点数制などは、外から入ってきた連中の規律をひきしめるだけの単なる脅しにすぎなかったのではないかと疑われていた。
 最後に審判そのものさえ、何やら偉そうな建前はあっても、いい加減なものだと見抜かれていた。事実への審理は全くお座なりで、階級で選別するだけのソ連官僚体制そのままの、形式的な通過儀礼だった。やけっ八《ぱち》の声を張り上げて、赤旗の歌を唱いまくっていれば、一番安全だ。
 第二収容所は土下座と怒号だけで、送り返しも残留も一人も出なかった。残留者が出なかったのは、ここまで来られた人間は、体力もやる気も充分で、何時間もの歌唱行進にも、へたばる者は一人も出なかったからである。
 四十日間の、ごろ寝の汽車の旅が、かなり体力の回復に役だっていた。ここでもう一日泊り、三日目の午前中まだ早いうちに食事もせず出発した。もうきっと唱い始めて、千回は越したろうと思われるほど唱いこんで熟達した赤旗の歌を唄いながら、ぼくらは歩調も高く、声も高らかに、また二キロの道を行進して第三収容所の門をくぐった。
 収容所へ入ると、やはり罵声と悪口《あつこう》が待っていたが、ひょいと見ると、ここの海岸は築港されていて、長い桟橋が一本のびていた。その尖端に白十字をつけた船が停っている。喜びがみなの胸にみちてきた。ぼくらにあびせかけられる悪罵が一つも気にかからなくなった。
 着くと、すぐ朝食の支給があった。
 パンと片手の掌の上に一つまみのキャベツを貰って、ぼくらは割りあてられた天幕に入った。既にもう前の組は乗ってしまったらしく、第三収容所には全く人がいない。
 しかも青い海には、まだ三艘の汽船が浮んで待っている。あの船にぼくたちは乗れるらしい。
 蒙古共和国の国境を出たときに同じ貨車に乗った、二百九十三号のぼくら五十人は、幸い一人も欠けることなく、ここまでやって来られた。
「さあー、もう少しだ。頑張ろうぜ」
 お互いに声をかけあった。ここまで来たら、二日でも五日でも我慢できる。広い天幕に入って、それぞれの場をしめた。民主聯盟の指導員が何人も入ってきて、グループごとに号外のような新聞紙を一人に一枚ずつ配った。日本の活字など見るのは、もう何年ぶりのことだろうか。
 手渡しながら指導員はまたどなった。
「きさまら、ここへ来たら、もう日本へ帰れると思ってるだろうが、それが一番のふてえまちがいよ。ここからシベリヤへ戻される奴はまだ何人も出てくるのだ。全員が戻されて船がカラで帰ったことさえあるんだ。きさまらもしっかり勉強しないとどうなるか分らんぞ」
 同じ言葉、同じパターンに耳馴れして、もう何も感じなくなっていた。それより配られた新聞の活字に夢中になって見入った。これまで知ることができなかった、日本の国内の現在の実状が紹介されていた。
『民主政治下の日本』
 タイトルにはそう書かれており、一番先に天皇の生活が誌《しる》されている。
 大日本帝国は解体し、天皇は退位し、京都の寺の僧として、毎日を読経三昧《どきようざんまい》の生活をして前非を悔いている。
 この記事に誰かが指導員に聞こえないようにささやいた。
「生きておられさえしたらいい。必ず我々がお守りしてまたみ位についていただく」
「そうだ。忠誠の臣がもう少しで戻ります」
 ぼくは黙って目を走らせた。
 次の欄には、内閣について書いてある。
 現在の内閣は、ジョージ・林という、アメリカ人の血をひいた二世が総理となって、民主政治に国民を馴れさせるよう、強力にして斬新《ざんしん》な政策を次々と打ち出している。
 日本共産党の徳田球一氏は近く衆議院議長に就任する予定である。
 誰もが新聞に書いてあることだから、それをそのまま信じた。
「だがなあ、おかしいなあー」
 一人があたりの者にいった。
「いくら日本がアメリカに負けたからといって、二世が総理大臣になれるのかなあ。誰かジョージ・林という名を知ってるかね」
 すると現役の兵が答えた。
「自分は高知県出身だがね、高知の政治家で林譲治さんて、明治時代から続いている名家の三代目の代議士がいるが、その人のことではないのかな」
 落着いた老人の声がしてきた。
「そりゃー、そうかもしれません。ジョージ・林はたしかに林譲治さんだ。それなら納得できますよ。大分前に、海軍参与官をやり、次に司法政務次官もやった人じゃありませんかな。この人なら総理になってもおかしくないだけの経歴があります。血筋もいいし、力量もある。年齢《とし》も七十に近い方です」
 かなり政治に詳しい人らしい。そう思って見ると、ここまでともかくついてきた萩田大典という民団の老人だった。満洲政府で熱河省の次長までやった人のいうことだから、誰もがうなずいた。
 その下に四角く囲って描かれてあった一《ひと》コマ漫画にはびっくりした。
 人物は人々におなじみの、角帽をかぶったフクちゃんだった。かすりの着物の前を開いておしっこをしている。そのお臍に、マッカーサーの顔が書いてあった。
 説明は一行。『余はチンの上にあり』
 何も知らずに読みすごした人も多かったが隣りにいた男が蒼白になって
「怪《け》しからん。日本へ帰ったらまずこの不敬な漫画家を刺してやる」
 といった。准尉から一等兵に位を下げ、渋々と伍長まで戻した男だった。
 ぼくはいった。
「准尉さん。そんなことはやめた方がいいよ。こりゃー当人が書いたんじゃない。こちらで誰か民主聯盟のやつらが勝手に書いた絵だ。漫画のまねなんて誰でもできるんだ」
「それにしても、こんなことを載せるなんて絶対許せん」
「それじゃ日本へ帰る前にこの収容所の中の新聞印刷所へ殴りこむんだね」
 そういわれると黙りこんでしまった。
 ぼくらが驚いたニュースがまだ幾らでもあった。特にぼくが参ったのは、教育関係のニュースであった。
 日本を出るときは、ぼくはまだ大学の予科の学生であった。帰ったら母校へ復学するつもりであった。ところがぼくの入っていた大学と、もう一つ、伊勢にある皇学館大学の二つが、マ司令部の特別命令で、閉校させられたと書いてあるのだ。
 代りに、やはりマ司令部と、国際連合の教育関係の援助で、鎌倉に東大を越す設備をほこる綜合大学の鎌倉アカデミー大学が設立されたことが詳しく報じられていた。その教授陣まで堂々と紹介されている。いずれも日本が誇る大学者たちらしかったが、ぼくはその中の誰一人も知らなかった。
 それでもこの新聞を見ているうちに、日本は大きく変ったという実感が、はっきり湧いてきた。さて祖国へ戻ったら、どこの大学へ入り直すか。そんなことをしきりに考えた。
 ここでは正午まで休ませてくれた。
 これは第一収容所の門を入ってから、学習・討論・歌唱行進と、へとへとになるほど追いたてられてきて、もう頭がぼうっとしてしまっているぼくらに、やっとあたえられた息抜きであった。
 正午には、そのひとときの休憩も終った。
 集合がかかった。舞台前の砂地に出てみると、ぼくらはそこに、出発の用意を整えている一団の兵たちを見た。蒙古共和国に入った連中と、違う隊であることがすぐ分った。軍服が違う。厚いラシャ地の、殆ど汚れていない、パリッとした軍服をみな着ていた。しかも背嚢《はいのう》は毛皮のついた旧軍の正式のを背負っている。もとは甲種の師団編制の軍団だったのだろう。今でも帯剣を吊り、鉄砲を担げば、そのまま戦場へ出られそうだった。二年間の滞在中、殆ど苦労しないで規則正しく暮してきたのに違いない。みな元気そうな血色のいい顔をしていた。旧軍と違うのは、軍旗の代りに赤旗を持ち、その赤旗に、民主突撃隊という字が書かれていることだ。
 誰かがいった。
「おや、さっきおれたちが天幕で新聞を見てるとき、後から収容所へ入ってきた連中だぞ」
「後の者が先になるのか」
 さすがに不満そうな声が出たが、マイクの大声で消された。
「ただ今、この赤旗部隊は乗船する。この方々の思想は完璧で教育は徹底している。我々は教えてやるものは何もないので、すぐ民主日本建設、打倒天皇制の尖兵となってもらうため、先に乗船してもらう」
 かなりシラけきったぼくらは見送りの赤旗の歌を、いやいやながら唱った。彼らは旗をぼくらの方に向け全員が、堂々とロシヤ語の労働歌で答える。訓練度ではとてもかなわない。終ると彼らは全員で
「スターリン元帥閣下万歳」
 を唱え、足音も高く桟橋の方へ去って行き、やがて長い列になって船の胴腹に吸いこまれて行った。さすがに羨ましかった。彼らと違ってぼくらは、学習の暇もないほど酷使されてきた。そのぼくらが、つまりこれだけこの国のために、働いてきたぼくらの方が、帰りが遅らされるなんて、ここは全く矛盾だらけの審問所であった。
 
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